人的資本経営――。岸田政権が進める「新しい資本主義」において基本方針に盛り込まれるなど、最近この言葉を耳にする機会が増えた。改めて人的資本経営とは何か。なぜいま注目を集めるのか。人的資本経営を論理面から支える「人材版伊藤レポート」策定に関与し、人的資本経営について経済産業省とセミナーなども実施している、人材・組織のコンサルティング会社、リンクアンドモチベーションの坂下英樹社長に、経営者は人的資本経営をどのように理解すべきか解説してもらった。聞き手=和田一樹 Photo=山内信也(雑誌『経済界』2022年10月号より)
「人財」は投資するほど価値が増す資産である
―― 人的資本経営という言葉が注目を集めていますが、改めてどんな内容を指しているのでしょうか。また、なぜことさらに人への投資が重要視されているのでしょうか。
坂下 近年、経営を取り巻く環境について、その持続可能性が問われるようになりました。自然環境を破壊して儲けることが長続きしないのはもちろん、従業員を単なる労力として苦役を課して成果を出すことも長続きしません。人材をコストとしてとらえ、原価管理の対象と考えるのではなく、人材は資本であり、新たな価値を創造する投資の対象だと考えることが求められています。
人をコストではなく資本として考えると、その他の資本との違いに気が付くはずです。基本的に資本というのは使えば価値が減ります。対して、人材資本は投資して育成することで資産価値が増えていく性質があります。消耗していく有形資産ではなく、磨くことで生み出す価値が大きくなっていく無形資産。その代表的な人材への投資によって付加価値を生みだす力が注目されています。
―― 持続可能性の文脈だけなのでしょうか。
坂下 そうではありません。商品市場の変化も関係しています。
代表例が事業のソフト化と呼ばれる現象です。ソフト化とは、日本の産業構造の割合において第三次産業であるサービス業の比率が7割以上にまで上がり、ソフト(サービス活動)の比重が増大していることを指します。例えば、トヨタが純粋な自動車メーカーからモビリティカンパニーへの変化を打ち出しているように、もともとサービス業ではなかった産業においてもサービス業へのシフトが進んでいます。加えて、商品の短サイクル化も起きています。従来に比べ商品のライフサイクルが短期化しており、数年前に流行したものが今ではトレンドではないという状態が散見されます。
このような外部環境の中では、刻一刻と変化するマーケット環境に柔軟に対応することが求められます。そのため、新たな事業や商品を生み出せる人材、または顧客にソフト価値を届けることができる人材こそが企業価値の源泉となるわけです。
すると、どんな人材をどうやって集め、どのように育成し活用していくか。こうした人事戦略こそが事業戦略を支える大きな役割を担うようになります。これこそ人的資本経営が求められている背景です。
―― 単純に「人への投資を強化しましょう」という理解でよいでしょうか。
坂下 それではやや本質を見誤ってしまいます。自社の事業戦略と人事戦略、もっと言えば、社員のモチベーションがしっかりと結びついてこそ、人的資本への投資効果は大きくなります。よくある間違った理解は、数字だけが先行することです。
例えば、女性管理職比率が低いから上げましょうと、数値目標だけが目的化してしまうような事例です。そうではなく、女性向け商品の市場を開拓する上でその市場で実際に消費者にもなる女性の意見を多く取り入れ商品開発に生かすとか、女性社員の活躍を成果にもつなげるために女性管理職比率を上げていくなど、事業戦略と人事戦略につながりがあることが、より効果の大きな人的投資になります。
人的資本経営はトップが牽引する
―― それぞれの企業において人的資本経営をリードするのは誰ですか。また、具体的に人的資本への投資とは何をすればいいのでしょうか。
坂下 人的資本「経営」と言っているぐらいですから、トップが牽引すべきです。人的資本への投資は企業理念や事業戦略との連携が重要ですから、人材の戦略的な活用となれば経営マターであり、もはや人事管理的な仕事ではなくなっています。
また、具体的な施策の中身については、それぞれの組織の人材に関する課題から取り組むことが大切です。求める人材が採れない、人が定着しない、管理職が育たないなど、業績を上げるうえで人的資本としてネックだと思われているところを洗い出すのが第一歩です。
―― 個別の施策は企業ごとに異なるということでしょうか。
坂下 そうなります。また、細かな施策以上に、その背後にある経営者の覚悟が問われています。
過去をさかのぼれば人的資本経営の元祖として松下幸之助さんがいます。松下さんは「松下電器は何をつくるところかと尋ねられたら、松下電器は人をつくるところです。併せて電気器具もつくっております。こうお答えしなさい」という有名な言葉にあるように、独自の哲学やポリシーに基づいて経営を実行しました。人を育てる経営哲学が松下電器産業をつくり、業績を伸ばした。そこに共感と賛同が集まったわけです。
―― 実際に人的資本経営は業績と結び付くのでしょうか。
坂下 当社が人事施策をサポートしている企業を例に取れば、サービス業やコールセンターのような人材の習熟度と業績の結び付きが強い労働集約型の産業ほど、人材への投資と業績に明確な相関があります。ただ、冒頭で申し上げたように、産業構造の変化をふまえると、ほぼすべての産業で人的資本への投資は業績を押し上げることが期待できます。
―― 人的資本経営については、投資家からの注目が高まっていることもセットで語られます。では上場していない企業や中小企業への影響はいかがでしょうか。
坂下 確かに現在投資家が注目していることは間違いありません。当社が機関投資家のアナリスト100人を対象にアンケートを実施したところ、人的資本を含む非財務資本に関する情報開示の状況に満足している投資家は全体の3割でした。また、今後さらなる開示が必要な非財務資本として、「人的資本」が最も注目されており、気候変動対策よりも注目度が高いという結果が出ています。
一方で、人的資本経営のインパクトは資本市場だけでなく、労働市場に対しての効果も大きく期待できます。当社では、コンサルティングをさせていただいている顧客企業に対して、労働市場に向けて人的資本に関する投資情報の公表を促しています。公表している企業数は今年3月時点では23社でしたが、7月中旬時点で43社にまで増えました。開示企業では人材採用などにポジティブな影響が表れています。
具体的な開示方法は、当社が提供している従業員エンゲージメントを数値化するサービスなど、第三者的な指標を用いて組織の状態を定点観測し、その経過を開示するものです。組織で働く人たちの所属動機やエンゲージメントの推移が一目瞭然となり、数値が高いことはもちろん、改善に向かっている状況なども、労働市場でのブランディングになります。
―― 従来よりも人材の流動性が高まっています。投資した人材が流出するなど結果的にコストばかりが増えて経営の足かせになりませんか。
坂下 そういう声もよく分かります。人材の流動性が高まっていることに関しては、だからこそ人への投資が重要だと言えます。自社の魅力を高め、求める人材を惹きつけることが大切です。あるいは、既にいる社員たちが辞めたくないと思う環境を整備することも人への投資です。
また、何となく人的資本経営が重要視され始めたから自社でもやらなくちゃいけないという義務感で取り組むと、かえって足かせのようになってしまうかもしれません。先ほど、女性管理職比率の例を出しましたが、その項目を重視することが自社の戦略やポリシーに結び付かないのであれば無理に取り組むことは難しいし、経営も社員も幸せではありません。人的投資は義務ではなく、社員のモチベーションが業績につながるポジティブな要因をまずは理解することが大事です。
働きやすさ改革だけでなく働きがい改革を
―― 坂下社長は、前職のリクルート時代も含めて日本の労働市場を長年見てきました。近年の労働市場をどのように見ていますか。
坂下 多くの企業が働きやすさ改革は熱心にしていますが、働きがい改革は不十分なように見えます。どれだけ働きやすくしても、最終的に働きがいを問われて転職されてしまうケースをよく目にしますし、特に自身が理念を持っている優秀な人材ほど就職先を選ぶにあたって働きがいを重要視しているように見えます。
また、人材観については、人を要素還元的にとらえるだけでなく、関係性でとらえることが重要であると考えています。例えば、人を1つの機能としてとらえるのではなく、この人は組織にこんな好影響をもたらす人だと関係価値でも見る。特に人材採用のケースで言えば、求人に100万円を使った場合、たくさん採用すれば1人あたりの採用コストは安くコストパフォーマンスが高いと考える経営者もいらっしゃるかもしれません。しかし、今後求められるのは、それぞれの人材を資産としてとらえ、その人材が自社に及ぼすさまざまな効果をイメージし、採用し活躍してもらうことです。
人的資本経営の盛り上がりも然りですが、経営者の人材への向き合い方がより一層問われる時代を迎えていると感じます。