経営者コミュニティ「経済界倶楽部」

銀座と浅草から未来に希望の火を灯す 古屋毅彦 松屋

古屋毅彦 松屋2

戻ってきた外国人観光客や富裕層向けの外商などで好調が続く百貨店業界。今年3月、銀座と浅草に店舗を構える老舗百貨店・松屋の社長が16年ぶりに交代した。新社長の古屋毅彦氏は、創業者から数えて5代目の50歳。古屋新社長が語る、創業家への思い、松屋の未来とは。聞き手=和田一樹 Photo=小野さやか(雑誌『経済界』2023年10月号より)

古屋毅彦・松屋社長のプロフィール

古屋毅彦 松屋2
古屋毅彦 松屋社長
ふるや・たけひこ 1973年東京生まれ。96年、学習院大学法学部政治学科を卒業後、同年4月に東京三菱銀行(現三菱UFJ銀行)に入社。松屋には2001年に入社し、08年に米国コロンビア大学院(SIPA)国際関係学修士号を取得した。11年取締役執行役員、13年同本店長、15年取締役常務執行役員、19年取締役専務執行役員、21年3月から代表取締役専務執行役員。23年3月から現職。

自分の存在価値は何か創業家出身の悩み

―― 今年3月、松屋の新社長に就任しました。松屋の社長交代は16年ぶりです。このタイミングでの社長交代の狙いはなんでしょうか。

古屋 社長交代のタイミングについては、前社長の秋田(正紀氏・現会長)がいろいろと考えてくれた結果だと受け止めています。

 百貨店業界はコロナで営業自粛を強いられたこともあり、ここ数年特に厳しい状況が続いていました。松屋の業績を見ても、2020年2月期の営業利益は9億6300万円でしたが、21年2月期は39億400万円の赤字にまで落ち込みました。ただ、23年2月期には3億4700万円の黒字に戻し、一番苦しいところは抜けた気配がありました。また、こうした外的な要因に加え、秋田も社長に就任してから16年が経過しましたので、新しい局面に向けた新体制を意識したのだと思います。

 そうした内外の状況を踏まえて、松屋はここからギアチェンジしていく時期であり、このタイミングでの社長交代になりました。

―― 松屋の歴史をさかのぼれば、1869年に鶴屋呉服店として創業しました。古屋さんは初代・古屋德兵衛さんから数えて5代目にあたる創業家のご出身です。いわゆる帝王学のようなものはあったのですか。

古屋 帝王学と言うほどのものはなかったです。そもそも、幼い頃に祖父や父と会社の話をした記憶があまりありません。けれど、当時は時代的に社員の方々が私の家によく出入りしていたり、母に連れられ松屋銀座にもよく出入りしていたことは覚えています。

 もう40年前くらいの話になりますが、百貨店という存在が今より人々の暮らしに身近だったというか、カテゴリーキラーと呼ばれる専門業態もなく、さまざまな領域で百貨店が高いシェアを持っていました。例えば、子どもがおもちゃを買う場合、近所のおもちゃ屋さんか百貨店。ですから、松屋のおもちゃ売り場はとても楽しい場所でした。

―― そうした環境で育つと、いずれ自分が家業を継ぐという意識は自然と芽生えるものですか。

古屋 学校の制服や売店の商品など松屋が扱っているものが身の周りにたくさんありました。自分の家柄のことを友達に言われることもありましたから、何となく小学生くらいの頃からいずれは松屋で働くのかなとは考えていました。ただ、明確に誰かに継ぐように言われたとかはなかったです。

―― 1980年代後半から90年代前半、企業経営にとって創業家という存在は良くないものだという風潮があったかと思います。どう見ていましたか。

古屋 たしかに創業家に関する話題が世間の注目を集めていましたし、メディアでは「創業家支配」なんて言葉も使われていました。そうした世の中の様子を見ていて、自分なりに創業家の人間としてどうあるべきか思うところはありました。それがちょうど就職の前くらいの時期だったと思います。

―― 百貨店業界の創業家に限って言えば、松坂屋は85年に伊藤家が、髙島屋は87年に飯田家が、伊勢丹は93年に小菅家が、それぞれ経営から離れています。古屋さん自身は96年に学習院大学法学部を卒業し、東京三菱銀行(現三菱UFJ銀行)に入行しました。当時は創業家として家業を継ぐことへの迷いもあったりしたのでしょうか。

古屋 いや、それほど深い意味があったわけじゃないです(笑)。銀行は若いうちから企業のトップに会えたり、世の中のお金の流れが分かったりして勉強になるとOBの方々に聞き、幅広く世の中を見ようという意識で銀行に就職しました。

―― その後、2001年に松屋に入社、休職して米国へ留学。08年に復職すると、13年から本店長、経営企画室長などを歴任して今年の社長就任へとつながります。松屋への入社以後は、将来の社長就任は既定路線だと一部で言われてきました。そうした声をどう受け止めていましたか。

古屋 実際は社長になって当たり前とかそんなことはないのですが、こればかりは仕方のないことです。いわゆる創業家に生まれた方は、程度の大小はあれ、みなさん複雑な心境を抱いているんじゃないでしょうか。私自身も、自分がこの会社にいる意味はなんだろうかと考えることもありました。

―― 松屋をどんな企業にすることで、古屋さんが社長である意味を表現していきたいと考えていますか。

古屋 グローバルで認められるような魅力ある会社にしたいと考えています。これは考え方の順番の問題で、時価総額を上げることを目標にするのではなく、例えばホスピタリティだったりクリエーティビティだったり、そういう部分で魅力を高めていく。海外の方が、松屋はすごくいいお店だから日本旅行ではぜひ行くべきだよって言ってくれるような企業、ブランドにしたいです。その結果として、時価総額や企業価値も向上するはずです。

百貨店という呼称に強固なこだわりはない

古屋毅彦 松屋
古屋毅彦 松屋

―― グローバルで認められる存在を目指す時に、価値の源泉になるものは何でしょうか。

古屋 百貨店の強みや存在意義は、長い歴史の中で培ってきた安心・安全と信用・信頼です。そこを途切れないようにしてきたのは、松屋に限らず日本の百貨店のすごいところです。例えば、デパ地下。大前提として、衛生検査は日頃から適正に行っていますが、異物混入など何らかのアクシデントを100%防ぐことは難しい。そうした際の対応、再発防止の徹底まで含めて、過去の歴史の中で大きなコストをかけ続けてきました。

 安心・安全を徹底する姿勢は、アジアを中心に海外からのお客さまが高く評価してくれていると感じます。これは存在価値として大きい。今後も大事にしていくべき部分です。

―― 「百貨店」という呼称であり続ける意味をどう考えますか。

古屋 百貨店というと、もともと百種類、多品種を扱うことに名前の由来があると思いますが、そういう意味では百貨店という呼称に対して強固なこだわりはないです。何を売るかは時代やお客さまのニーズによって変化するものです。そもそも、松屋は百貨店というよりも、「銀座と浅草に館を構えるお店」というイメージです。品数よりも、お客さまの需要を取り込むことを大切にしたいと考えています。

―― 顧客のニーズを反映した売り場をつくるために、大切にしているものは何でしょうか。

古屋 社員の自由な発想からアイデアが生まれてくることが多いです。昨年、松屋銀座の地下2階生鮮食品フロアに、銀座の名店をはじめ55ブランド350種類を扱う大規模な冷凍食品売り場をオープンして話題になりました。これは食品の担当者がお客さまのニーズを考え抜いて出てきた企画です。他にも、今年の春から5階の紳士フロアの半分を男女複合型ショップで展開していますが、これも同じく現場から上がってきたアイデアです。

未来を感じ希望を持てる商品やサービスをつくりたい

―― 現場の自由なアイデアを生かす売り場づくりは今後も変わらないですか。

古屋 大きく変わることはありません。私自身、社長と兼務する形で営業本部長も担っています。ですから、現場の社員とのコミュニケーションを増やして、今後も自由なアイデアを生かしていきたいと思っています。

 ただ、松屋は目指すべきミッションに「未来に希望の火を灯す、全てのステークホルダーが幸せになれる場を創造する」と掲げているように、お客さまに希望の火を灯す存在であることが大事だと思っています。

 自分が子供だった時代と比べると、国際情勢は不安定で自然災害も激甚化し、何かと不安ばかりが大きくなっている。だからこそ、若い世代や子供たちのために、未来へつないでいくべきことはたくさんあると感じます。もちろん、それが脱炭素の取り組みでもいいのですが、単純に排出量を測りましょうという話だけになってしまうと、ただ負担ばかりが増えている感覚になって息苦しくもある。ですから、仮に小さなことでも何かもっと未来を感じられたり希望を持てたりするような、そんな商品やサービスを追求していきたいです。

―― そうした思いを売り場で表現できると、松屋ブランドを支持する消費者も増えそうですね。

古屋 そうですね。松屋での買い物を通じて、多くの人が幸せになる消費のスタイルも仕掛けていきたいと思います。例えば、21年に「ラボグロウンダイヤモンド」という合成ダイヤを扱うブランド「ENEY」を立ち上げました。ダイヤは採掘時の環境破壊や児童労働などが問題視されています。対してラボグロウンダイヤモンドは、人も環境も傷つけず天然ものと変わらない美しさを持つ合成ダイヤです。

 これは一例ですが、このように将来世代も含めた幸せな在り方を追求し未来への希望にフォーカスしていくことで、私たちの姿勢がお客さまにも伝わり、新しい世代の方々にも松屋に来ていただけるようになればうれしいですし、それを当社の新たな存在意義にしていければと思います。