「獺祭」で知られる旭酒造(山口県岩国市)が、ニューヨーク州に工場(酒蔵)進出し現地生産を開始した。原料の酒米もアーカンソー州から半分を調達。まずはニューヨーク市内のステーキ店などのレストランに売り込み、SAKEの新市場創出に挑む。現地に飛び取材した。写真・文=経済ジャーナリスト/永井 隆(雑誌『経済界』2023年12月号より)
投資額は90億円。社運を賭けた大事業
マンハッタンからハドソン川に沿って北に向かい、車で約2時間のニューヨーク州ハイドパーク。西海岸と比べれば、まだEVは少なくガソリンエンジンの日本車が目立つ緑豊かでのどかな田舎町のスーパー跡地。「獺祭」の旭酒造が建設した新工場で、純米大吟醸「DASSAI BLUE(ダッサイ・ブルー)」の出荷が始まったのは9月25日。
工場の竣工は2017年に進出を決めた時の計画よりも4年半も遅れた上、投資額が当初見込みの20億円に対し、「4倍以上の約90億円に膨れました」と桜井博志会長。年間売上高が165億円(22年)の旭酒造にとっては、まさに社運を賭けた一大プロジェクトである。同社が海外生産に乗り出すこと自体、初めての挑戦なのだ。
ではなぜ、大きなリスクを背負い工場進出を果たしたのか。何より、勝算は見込めるのか。
博志会長の長男で旭酒造の4代目社長である桜井一宏氏は「0・2%への挑戦が一つのテーマ」と語る。
国税庁の調べでは、20年の米アルコール市場の規模は、消費金額ベースで2169万3400万ドル(1ドル150円として約32・5兆円)。ビール、ワイン、ウイスキーがその6割を占める。これに対し日本酒は4億200万ドル(約603億円)と、0・2%にしか過ぎない。
この理由として、「(日本酒は)〝日本食のお供〟でしかないから。アメリカ人にとっては馴染みが薄い。日本食はそれなりに伸びてはいるけれど、そもそもの規模は小さい。0・2%の壁を破るために、まずはニューヨーク市にある日本食以外の多様なレストランを攻略していく考えです。一番のターゲットはマンハッタン。当然、日本酒の文化や背景について、ソムリエやシェフたちにきちんと伝える必要があり、そのための前線基地となるのがこの酒蔵(工場)なのです」と一宏社長は説明する。
工場は各工程の見学ができてテイスティングルームも完備。レストラン関係者を招くことは可能だ。
発売を始めた「ダッサイ・ブルー」(720ミリリットル)の希望小売価格は34・99ドル(約5248円)。ニューヨーク市の小売店にも展開するが、ステーキハウスやイタリアン、生牡蠣のレストランなど、日本食に限らずに高級レストランに高級酒として売り込みをかけていく。
初期の成功を追わずシェアより価値を追う
料飲向けを優先するのは、高級酒という理由だけではない。
日本と違いアメリカの酒類の小売販売は州によって異なる。ニューヨーク州の場合、リカーストアにワインや日本酒は置けるが、ビールは販売できない。その一方、スーパーではビールを販売できるものの、ワインやウイスキーを売ることはできない。これは小規模なリカーストアを保護するだけでなく、「禁酒法時代のなごりから、酒類販売への規制が残っているため」(現地の関係者)との指摘もある。
さらに、ニューヨークの小売店での日本酒価格には、店によりばらつきが多い。0・2%と日本酒の存在感があまりに希薄なため、商品に対する流通の支配力が強く、メーカーの発言権が制限されているためだ。
まずは「ニューヨーク市内の飲食店で地歩を固め、5、6年後をメドに全米へと販売を広げていく」(博志会長)戦略である。ニューヨーク以外の米市場は、従来通り日本からの輸出で賄っていく。一宏社長は「0・2%を5倍の1%としていかないと、日本酒市場はアメリカで確立できない。もっとも、新工場がフル稼働しても0・26%にしかならない。むしろ、現地でハイエンドな商品をつくることで、日本酒市場拡大のきっかけとしたい」と語る。
博志会長は、「現場には『焦るな』と指示しています。売り上げを得ようと自分たちのスタイルを崩したら、必ず失敗します。初期の成功を追ってはいけない。シェアではなく、あくまで価値を追う。最初は小さく展開していくのです。ここが大量生産を前提とするビールとは違う部分」と言う。仮に工場の稼働率が思うように上がらなくとも、「日本本社の事業で支えていける」とも。
ちなみに米国の日本酒消費金額4億200万ドルのうち、4400万ドルは日本からの輸出分。残りの3億5800万ドルは、月桂冠や大関、宝酒造などが主に西海岸で生産する分で占められる。これまで、大手各社は和食レストランに比較的安価な酒を供給してきた。原料の酒米にはカリフォルニア産のカルローズという品種が使われてきた。本来は食用に栽培されている米だが、酒米としても適性があり、日系の食品商社が高精白して各社に供給している。
これに対し、ハイドパークの旭酒造は最高級品である純米大吟醸しか作らない。酒米には、王道である山田錦を100%使う。半分は日本から輸入するが、半分はアーカンソー州の農家が生育したものを調達する。
財務省によれば、22年における日本酒の輸出額は前年比18%増の475億円。獺祭は71億円と15%を占めた。また、米国への輸出額は前年比14%増の約109億円。やはり獺祭が15%ほどを占めるそうだ。
なお、現地生産品は日本で造っていないので、「日本酒」と定義されず、厳密には「SAKE」となる。
会長自ら常駐し酒造りを指導
「私どもの酒蔵は、山口県の獺越という辺鄙な田舎にあり、地元の負け組でした。なので、東京に出て行くしかなかった。東京に出てみると市場が大きくてシェア競争はなかったのです。私にとっては、世界よりも東京に出たときの方が大変だった」
こう話す博志会長は1950年11月生まれ。松山商科大学(現松山大学)を卒業し西宮酒造(現日本盛)で3年間修行し76年に旭酒造に入社したものの、父親である先代と衝突して退社。石材卸に身を置いたが、父の急逝により84年家業に復帰し3代目社長に就任。杜氏を設けないで社員による四季醸造といった革新的な造りで成長軌道に乗せる。獺祭の輸出が始まったのは2004年。特にニューヨークの金融マンに愛され、彼らがロンドンや上海などに動くたびファンが世界に広がった。
1976年11月生まれの一宏社長は早稲田大学を卒業し、別業界に勤務後2006年に入社、16年に社長に就任し、博志氏は同時に会長に。
ハイドパークへの進出は、同じ地区にある大手料理学校で、現在は提携するカリナリー・インスティチュート・オブ・アメリカ(CIA)から16年末にもたらされた。
国内日本酒市場は02年に90万キロリットルあったが、22年には40万キロリットルとなり縮小に歯止めがかからない。それだけに海外に活路を求める必要に迫られていた。
17年初めに現地を見た博志会長は、すぐに「GO」を決断する。ところが、資材高騰や円安、排水処理規制の対応などから、竣工は遅れ建設費も当初予定を大きく上回り、一時プロジェクトは凍結される。博志会長は「自分は撤退を決断する度胸もないのか、と一時悩みました。誰にも打ち明けなかったけれど、社長や幹部は私の胸の内に気付いていたのでは」と言う。福音だったのは売り上げが大きく伸びたこと。特に20年に35億円だった輸出額が21年には69億円と倍増し、22年も71億円と推移したのは大きい。コロナ禍で、中国の富裕層が家飲み用に獺祭を選択したのが貢献した。
建屋が完成した後の今年3月、博志会長は夫人とともに隣町に住み、酒造りの指導に当たる。以来、試醸を重ねるも、会長はその度にNGを連発し、8回目でようやくOKが出た。本社からベテラン技師が3人派遣され、現地採用の米国人6人が醸造に当たる。
「私が常駐しているのは、事業が失敗したときの責任を負うため」と博志会長は言う。一宏社長は「モノづくりを進化させるため、岩国とハイドパークとを切磋琢磨するライバル関係にしていく。これが進出したもう一つのテーマ」と明かす。
醸造から流通まで試行錯誤の連続
ハイドパークの水はミネラル分を多く含み硬度が高く、発酵は早く進む。さらに、米国産山田錦は日本産と比べ中心部の「心白」が少ない。日本と設備は同じでも、つくりには工夫が求められる。しかし、モノづくりの一番の問題は、分業を基本と考える米国人従業員と、日本人スタッフとの意思疎通を含めた関係性。「酒造りは人づくり」(博志会長)ではあるが、現地社員をどう一人前の醸造家に育てていくのか、初めての試練と向かい合っている。
流通面でも問題は浮上した。「米国で一般的なワインの常温による長期保存は、ダッサイ・ブルーでは無理。冷蔵保管は必須であり、フレッシュローテンションも求められる。いわば缶詰店が生鮮品を売りだすようなもの。流通政策を具体的にどうしていくのか、未だに悩んでいる」と一宏社長は打ち明ける。そもそも、世界最高峰の一流レストランのソムリエやシェフらに、SAKEのダッサイ・ブルーをどう売り込んでいくのか、未知数は多く、走りながら試行錯誤する状況だ。
旭酒造は、日本酒の海外展開で公布される国や県からの補助金を、一切受けていない。「官の金を使うと高くつく。、事業では自立していることが大切」(博志会長)という方針を貫いている。今回の攻撃をラグビーに例えるなら、自陣深くから楕円球を抱いた孤高の左ウイングが、敵陣に向かい単騎でカウンターを仕掛け突進していくようである。ニューヨークで展開するクラフト的な日系酒蔵もこれに続き、ムーブメントを起こせたなら、SAKEの活路は開けていくはず。
一宏社長は言う。「アルコール飲料界のアップル社を目指します。グローバルブランドに育つならば」。果たして。