ロゴ、社名、商品。歴史の長い企業には必ずシンボリックな存在があり、社員のよりどころになっている。創業家が残っていれば、その求心力は強い。しかし、いつかどこかで創業家が離れていくこともある。社長指名の方法に答えがないように、脱創業家の進め方にも答えはない。いかにすれば、組織の団結は保てるのか。YKKで初の非創業家社長を務めた猿丸雅之氏に話を聞いた。文=和田一樹 Photo=山内信也(雑誌『経済界』巻頭特集「社長の選び方特集」2024年1月号より)
猿丸雅之 YKK会長のプロフィール
会長と社長で二人三脚。創業家の離脱は段階的に
「社長の定年は65歳――」
世界的ファスナーメーカー・YKKの2代目社長、吉田忠裕氏は1999年に執行役員制度を導入してからそう言い続けてきた。忠裕氏は当時52歳だった。YKKといえば、94年に変更する前の社名は吉田工業。非上場会社で、忠雄氏、忠裕氏と、2代続けて吉田家の人間が社長を務めていた。創業家が持つ求心力は言わずもがな。定年を巡る言葉の裏を返せば、65歳までは社長をやるのだろう。社内には、何となくそんな空気があった。
ところが2011年、忠裕氏は64歳にして退任を発表。中期経営計画が順調に推移しており、タイミングとしては良いだろうとの判断だった。世間は忠裕氏の子女が継ぐのかと考えた。しかし、YKK社内に直系の縁者はいなかった。社長に就任したのは現会長の猿丸雅之氏である。
「会社は個人のものではないと、忠裕氏はよく言っていました。社名をYKKに変更したのも忠裕氏であり、おそらく本人の頭の中では創業社長から自分の代になった時に、そういう形に持っていこうという意識はあったと思う」猿丸会長はそう振り返る。
後継者について忠裕氏がこだわったのは、事業に精通していることだった。忠裕氏は、YKKの社長と同年にAP(建材)事業を手掛けるグループ会社・YKK APの社長も後任に託している。APの社長に就任したのは堀秀充氏(現会長)。猿丸会長と堀会長に共通していたのは、どちらも当時事業本部長であったこと。忠裕氏の思いとしてはサプライズのない人選だったように見える。
「事業に一番精通している人間に社長をやってほしいとは常に言っていました。そういう意味では私も堀も、それぞれ事業本部長であり、取締役でもあった。忠裕氏の頭の中には候補としてあったのだと思います」
社長を退任した忠裕氏の肩書は、会長CEOになった。YKKはそれまで77年の歴史を吉田家の2人が率いてきた。急激な変化よりも、CEO職を忠裕氏が担う形で段階的な移行を目指すための体制だった。
「自分の後ろには忠裕氏がいて、きちっと見てくれている。それはありがたかったですね。肩書以外の面では、『君は前を担げ、私は後ろを担ぐ』という言葉をかけてくれて、気持ちが楽になりました」
これは創業者がよく使った言葉だ。役割分担を固定せず、テーマや案件によって得意な方が前を担いで先導するという意味で、協力する意識を表したものだった。その言葉通り、忠裕氏と猿丸氏は二人三脚で、AP社長の堀氏も含めれば三人四脚でグループを牽引した。
その後、忠裕氏は徐々に経営から距離を取っていく。18年に会長を退任し、20年には取締役も外れた。直系の子女が社内におらず、忠裕氏が離れていくということは、YKKから吉田家の関与が薄くなっていくことでもあった。
猿丸会長はガバナンス体制を構築することこそが自分の仕事だと定めた。創業者・吉田忠雄氏が亡くなったのは1993年。同年に入社した社員でも、現在は50歳を超えている。ましてや、86年に脳血栓で倒れ、1年間の治療・リハビリを経て車椅子で会社に来るようになっていたことを考えれば、忠雄氏を自分の目で見た社員は相当に限られる。そういった意味で、猿丸会長は転換期の橋渡し役を自覚した。
創業家が持つ求心力をYKK精神へ置き換えていく
「YKKを創業した吉田忠雄と、その後を引き継いだ吉田忠裕という人物の大きさ。吉田家が持つ求心力は、簡単に補うことはできません。ただ、幸いなことに、YKKには『善の巡環』という強固な精神がありました。会社としてばらばらにならないために、特定の人物が持っていた求心力を、精神に置き換えていくことを大事にしました」
「善の巡環」は忠雄氏の思想の結晶である。事業活動の中で発明や創意工夫を凝らし、常に新しい価値を創造することによって事業の発展を図ることが、顧客、取引先の繁栄につながり、社会貢献できると忠雄氏は考えていた。現在、YKKが持つ経営理念もコアバリューも、善の巡環に基づいている。
猿丸会長は、この精神を社員たちの行動パターンにまで落とし込むことに取り組んだ。例えば、10人ほどの社員と車座になり、理念について語り合う「車座集会」などを続け、年間100人以上の社員と深く向き合った。猿丸会長の後、2017年からYKK社長を務めているのは大谷裕明氏だが、その後継者選びでも、善の巡環は当然、重要視された。
「善の巡環を時代に合った形で体現していけるかは第一の条件でした。その点、大谷も『車座集会』に情熱を持って取り組んでいます。加えて、YKKは72カ国・地域で事業を展開していますので、海外経験なくして全体を統括するのは難しい。彼は30年以上、香港、中国での勤務経験があるのでそれも大きな理由でした」
事業に精通していることは、忠裕氏が猿丸会長を後任に選んだ理由でもあった。YKKはその時々の重要な市場の最前線で顧客や取引先と向き合っている人が社長になっている。
猿丸会長はYKKについて、「オーナー企業であるという意識は特別ない」と語るが、自身は1975年の入社から、吉田家が率いた会社で当たり前のように過ごした。4つ年上の忠裕氏とは、机を並べ仕事をしたこともある。旧本社ビルの海外事業部でのことだった。一緒に酒を飲みに行くこともあった。なにより、会長と社長の関係で支え合った。吉田家が離れていくことに、素朴に寂しさはないかと尋ねるとこう答えた。
「寂しさは全くないと言えば嘘になりますけど、それはどちらかというと、吉田忠裕氏が離れていくことに対してですね。吉田家が、という意味では、きちっと思想を受け継いでいるという思いがありますから」
YKKの創業は1934年。忠裕氏が取締役を外れたのは2020年。吉田家が経営に関わった86年間に比べれば、それからの3年間はわずかな時間かもしれない。カリスマの去った組織が難しい局面を迎える例は少なくない。組織の世代交代がうまくいったのかは、歴史が証明してくれるのを待つしかないが、YKKには導きとなる強固な精神と、それを大事に引き継ぐ社員たちが残っている。