高度経済成長期後の日本人は、物質の次に精神的な豊かさを求めた。そんな欲求を的確に捉えたのが堤清二氏であり、彼が率いたセゾングループである。特に若者や女性に愛されたセゾンカルチャーの中心にはパルコがあった。2023年、渋谷パルコは開業50周年を迎えた。いま目立つのは外国人観光客の多さだ。パルコはどこへ向かうのか。聞き手=和田一樹 Photo =山内信也(雑誌『経済界』2024年2月号より)
川瀬賢二 パルコ社長のプロフィール
構成力や編集力を求めて外国人観客が殺到
―― 2023年3月、川瀬さんがパルコの社長に就任しました。3〜8月期の業績を見ると、対前年同期で総額売上高は17・3%増、営業利益は15・4%増と好調のスタートでした。牽引するのは渋谷パルコと心斎橋パルコで、どちらも外国人観光客に人気です。
川瀬 たしかに渋谷と心斎橋の両店舗は売上高の約3割がインバウンド売上高と、外国人のお客さまに人気です。ただ、理由は物価の安さだけではありません。なぜ渋谷パルコに来たいと思うのか、7月に台湾の人気ウェブマガジンでアンケートを取りました。すると、自分と似たような感度の人たちがいてわくわくするとか、逆に自分と違う価値観の人が大勢いて素晴らしい、という答えが多くありました。
海外の方が驚いてくださるのは、パルコの構成力や編集力です。渋谷パルコには高級ブランドのロエベとグッチがあり、世界中のデザイナーのハウスブランドも並んでいて、ゲームや漫画、アニメ関連のショップもある。さらには昆虫食も扱っています。このユニークな価値を求めて多くの方に来ていただいています。
―― 23年は渋谷パルコがオープン50周年の節目です。外国人からの人気という面では、過去にないくらいの盛り上がりです。
川瀬 それだけパルコが果たす役割が変化してきた証しだと思います。池袋のパルコが開店した1969年を振り返ると、女性が社会進出して人生を謳歌し始める、まさに最初の時期でした。あるいは、いわゆる「若者」と呼ばれる層も人口ボリュームが大きくパワーがあった。そうした女性や若者に対して、応援するメッセージや自己表現のツールを提供してきたのがパルコです。70年代、80年代は、渋谷や池袋で展開したものを全国のパルコへ広げていきました。まだインターネットもない時代ですから、パルコを通じて「東京がそのまま私たちの街に来る」、そんな感覚をお届けしてきた自負もあります。
―― その後、90年代に日本経済は曲がり角を迎え、今後は人口も減少していきます。近年、パルコも宇都宮や津田沼、松本など撤退する店舗もありますが、今後はどのような成長を描いていますか。
川瀬 70年代、80年代は東京から地方へ文化を広げる役割を担いましたが、今度はアジアをはじめとする世界に向けて展開していきたいと考えています。しかもそれは、商業施設を作るという手段に限定されることではありません。
堤清二と増田通二。パルコのルーツをたどって
―― パルコ=商業施設というイメージが強いですが、それ以外の展開も可能なのでしょうか。
川瀬 自分自身のキャリアを通じて強い自信を持っているのは、パルコは単なる商業施設の運営者ではないということです。
と言うのも、私は92年に入社してから約30年のキャリアのうち、出向も含めて15年間くらいは店舗運営以外の業務に関わってきました。多い人だと8店舗くらい現場を経験している人もいますが、私は3店舗しか経験がありません。
―― 川瀬さんはどうしてパルコに入社したのですか。
川瀬 大学時代は美学芸術学を専攻していまして、ハンス・ベルメールという芸術家を卒論に選ぶタイプの学生でした。学生時代に芸術論に関する本を何冊も買っている中で、パルコ出版が出している本もあったんです。あぁ、こうした純粋な芸術路線の本を出せるのってすごいなと感じて、自分も携わりたいと思ったのが入社の経緯です。ただ、実際には吉祥寺パルコの配属ですから、希望は叶いませんでしたけど(笑)。
―― 若い頃はどのような業務に関わってきたのでしょうか。
川瀬 入社3年目の時にインターネットを活用した事業を立ち上げるプロジェクトに参加しました。当時は社内の力学も全然分かっていなくてうまく仕事が進められず、そもそも社内の誰もがインターネットを知っているわけではなかったですから、「そんなことより目の前の店舗運営が大事でしょ」という視線や空気を感じることもあって、苦労の毎日でした。その後、カルチャースクールを運営する事業にも関わりました。受講生を20人集めないと収支が成り立たないのに、8人しか集まらなくてどうしようなんて思い出もたくさんあります。
―― とはいえ、経歴は20代から経営企画や新規事業系の経験が豊富で、40代前半には出向先で社長を務めるなど、いわゆる出世頭として駆け上がってきた印象です。
川瀬 周りがどう思っていたかは分かりませんが、部長級に昇進するための試験は5年間落ち続けました。同期には先にパスしていく面々もいましたから、自分では駆け上がってきたような思いはないんです。
ただ、他の人ではなかなか味わえない経験をさせてもらい、さまざまな面からパルコに関わることができました。だからこそ、パルコの強みは店舗運営だけではないと自信を持って言えます。パルコは文化や思想の体現者であって、そこに共鳴していただける方々にわくわくしてもらったり楽しんでもらったりすることが生業です。
こうして社長になってから、改めてパルコのルーツであるセゾングループの創業者・堤清二さんや、パルコの創業者・増田通二さんに関する書籍を読んでいますが、そうしたパルコのアイデンティティや思想を再認識しています。
私たちを分かってくれる。そんな存在を目指す
―― 商業施設の運営者ではないパルコは、どのように海外に進出していくのでしょうか。
川瀬 例えば、渋谷パルコ4階には「PARCO MUSEUM TOKYO」というアートスペースがあり、地下1階にはアートカルチャーやアニメ、ゲームなどさまざまな展示を行う「GALLERY X」があります。どちらも自主運営で、2週間から1カ月でコンテンツを変えているのですが、この企画力はそのまま海外でも展開できます。仮に2週間の企画を10個連続で展開すれば20週間のイベントになり、「パルコミュージアムinニューヨーク」なんてことができるかも知れません。すると、建物や街の価値を向上させられるはずで、私はそこに可能性を感じています。
重要なのはこれが直接的にビジネスになるかどうかというよりも、クリエイターやプロデューサーの集団としてパルコを認識していただくきっかけになることです。それが今後のさらなる展開を生むはずです。
―― 稼ぎ方も商業施設の賃料モデルとは大きく異なりそうですね。
川瀬 そうですね、これまでは仲介者的な立場でしたが、これからはさまざまなパートナーと共創していくコ・クリエイターのような存在になっていきたいと思っています。
また、事業の変化に伴ってパルコに対する世の中のイメージも変わっていくはずです。70年代、80年代にカウンターカルチャーの旗手を標榜していた時は、就職したい会社ランキングで上位に入るなど、世の中から広く認知されていました。少し極端な言い方ですが、今後は広く万人に知られている必要はないのかも知れません。現代は価値観も多様化していて、個々人の「好き」を核にしたクラスターが無数にある時代です。パルコは熱量が高いコンテンツや活動に対して共感し、そのコミュニティの価値を増幅して一緒に楽しむような存在になりたい。そうして、「パルコは私たちのことを分かってくれている」と、熱量の大きい方々から支持されることが重要な時代だと感じます。
そうした熱量ってすごいんです。札幌パルコで北海道発の地元アイドルを集めてDJイベントを開催した時は、もう屋上の床が抜けるんじゃないかってくらい盛り上がりました。広島パルコでは、全国の小規模でマニアックな出版社と中四国エリアの個性派書店や古本屋から3千冊以上の本を集めたイベントを行いましたが、これは全国からお客さまが集まりました。地方の個性を地元のクリエイターと一緒にキャッチできれば、東京に持ってくることもできますし、そのまま海外に持っていくこともできる。
海外展開の具体的な内容はこれからですが、パルコが培ってきた企画力を最大限に発揮できるアイデアを育てているところです。
―― パルコはユニークな社員が多そうですね。
川瀬 社長に就任してからタウンミーティングで全国を回りましたが、みんなエネルギッシュです。特に若手を中心に、こんなことをして街を驚かせたいとか、あんなことをして社会現象を巻き起こしたいとか、驚くくらい生き生きしています。その姿を見て、パルコは世の中に愛してもらえる会社だと自信を持ちました。私は2024年で54歳になりますが、気持ちはまだまだ若手なので、負けずに頑張りたいと思います。