日本を代表するサラリーマン漫画「島耕作」シリーズは、昨年、40周年を迎えた。最初は係長だったのが、課長、部長、取締役へと昇進。常務、専務を経て社長、会長にまで上り詰め、現在は「社外取締役 島耕作」が連載中。ここまで続けてきた理由を作者の弘兼憲史氏が語る。聞き手=関 慎夫 Photo=横溝 敦(雑誌『経済界』2024年5月号より)
弘兼憲史 漫画家のプロフィール
アタフタする浮気男からスーパーサラリーマンへ
―― 漫画「島耕作」シリーズがスタートしたのは1983年。昨年40周年を迎えました。これだけの長期間、一人のサラリーマンの人生を描いた漫画はほかにありません。
弘兼 最初は『モーニング』(講談社)の読み切り漫画でした。二十数ページ、好きなものを描いていいと言われて、周りの人がやっていないのは何だ、と考えた結果、大企業に勤めるサラリーマンものにしようと。それが40年も続くとは、想像もしていませんでした。
―― 確かにサラリーマンものは少ないですね。島耕作のあとに「サラリーマン金太郎」が始まりますが、暴走族出身という特殊例ですし。
弘兼 島耕作以前だと「釣りバカ日誌」があります。サラリーマンものではあるけれど、浜ちゃんが社長と一緒に釣りをするというコミカルな漫画で全然ジャンルが違います。島耕作はリアリティのあるサラリーマンです。僕自身、松下電器(現パナソニックホールディングス)でサラリーマン生活を送っていました。当時はまだ、大学を出て大手企業に勤めてから漫画家になった人はそんなに多くなかった。その経験を生かすことができました。
―― 島耕作の勤務先は松下電器をモデルにした初芝電器。劇中には創業者・吉原初太郎が出てきます。弘兼さんは松下幸之助に会ったことはあるのですか。
弘兼 ありますよ。70年に入社して73年に辞めるまで、門真(大阪府)本社の宣伝部に勤務していました。幸之助さんは会長で、会長室は3階にあったのですが、宣伝部も同じフロア。ですから幸之助さんとは廊下でよくすれ違いました。すでに足を悪くされていて、杖をつき、女子社員に介添えされながら歩いている。だけどやはりオーラがありました。社長や専務とすれ違う時は軽く会釈をするだけですが、幸之助さんだと立ち止まってあいさつする。迫力が違いました。
―― 島耕作も最初は初芝電器宣伝部勤務でした。のちにどんどん出世していきますが、最初は浮気をしてそれがばれないかオタオタする普通のサラリーマンでした。それが途中から大きく路線が変わっていきました。
弘兼 最初は読み切りだったこともあり、係長が課長になる前に身辺を整理しようというオフィスラブの話でした。それを含む最初の4編はすべていろんな女性とのラブアフェアで、いろいろ揉めたりするような内容ばかり。ところが人気が出てきて連載になり、そうなるとオフィスラブばかりでは駄目だということで、スーパーサラリーマンに切り替えていきました。だからといって仕事の話ばかり描いても誰も読まない。そこで適度にラブストーリーを入れていく。だけど不倫はまずいから離婚をさせて、自由恋愛をする。そうやってキャラクターが出来上がっていきました。
「三越事件」や「東芝」など実体経済を作品に反映
―― 弘兼さんも島耕作も1947年生まれの団塊世代。日本の経済の浮沈とともに生きてきて、島耕作シリーズにもそれが強く反映されています。
弘兼 団塊の世代に対する評価というのはいろいろありますが、私としては一番幸せな世代だと思います。戦争だって知らない。戦後すぐは貧しかったかもしれないけれど、当時は自分だけでなく日本全体が貧しかった。その後、高度成長の波に乗って、生活もどんどん豊かになった。そして働き盛りの時にバブルです。45歳くらいから経済に陰りが出てきて失われた30年に入りますが、それでも老後は何とか逃げ切れる。そういう世代です。
―― バブル時には日本企業が海外資産を買いまくりました。それも作品に出てきます。
弘兼 三菱地所がロックフェラーセンターを、ソニーがコロンビア映画を、そして松下電器はユニバーサル映画を傘下に持つMCAを買収しました。島耕作も、アメリカに行って映画会社を買収しています。日本経済に勢いがあった。日本企業は世界で頑張っている。そういう思いを込めて、描いていました。
―― 現実社会とリンクしているところがこの作品の面白さにもつながっています。松下電器が松下電工と三洋電機と統合してパナソニックになった直後に、初芝電器も五洋電機と合併してTECOTとなりました。
弘兼 現実に起きたいろんな事象からヒントは得ています。連載開始前に三越で社長が解任される事件がありましたが、それが初芝電器の社長解任のエピソードにつながっています。最近、東芝でモノ言う株主との抗争がありましたが、そういった話も盛り込んでいます。
―― 連載開始しばらくは電機業界も景気がよかったものの、バブル崩壊後は非常に厳しい局面を迎えます。作品を描き続けるのに苦労したのではないですか。
弘兼 実は、それ以前の作品も10年で終わったこともあり、島耕作も10年で連載をやめるつもりでした。それでも編集部に頼まれて単発で続けたのですが、2000年頃から再び連載を開始します。でもその時には家電業界は冬の時代を迎えていました。そこで少し景気のいい話にしようと思って、島耕作をワイン会社や音楽業界に出向させたりしています。
―― 弘兼さんは今の電機業界やパナソニックをどう見ていますか。
弘兼 元々松下電器というのは開発型のメーカーではありませんでした。ビデオにしても日本ビクターが開発したVHS方式を、営業力を背景に売りまくった。その意味では技術的にすごい会社というより経営のうまい会社だったと思います。ただ韓国や中国にどんどんその座を脅かされていってしまい、それが今日まで続いています。
これは時間の問題だったとは思います。価格では勝負になりませんから。ただ、僕自身、取材して分かったのは、韓国や中国が台頭してきた段階では日本は技術面で優位にあった。だけどその技術の高さのプライドから、スペックを落として安くすることができなかった。国や地域によっては、多少テレビの映りが悪くても安い方を買うという人たちがたくさんいた。そこへの対応ができず、オーバースペックの製品を作り続けてしまっていた。それも敗因の一つだと思います。
―― 島耕作は取締役になったあと、中国勤務となりますが、そこでも中韓勢に押される状況が描かれています。
弘兼 あれは実際に僕が中国で見た光景です。島耕作を描くために海外へ何度も取材に行きましたが、訪問先では必ずパナソニックの工場などを見学しています。これはOBの特権ですね。社員の方々は歓迎してくれると同時に、いろんなことを教えてくれる。中には表に出ていない現地でしか知り得ない情報や、作品には入れることのできないものもあるけれど、それが作品に厚みを持たせています。その意味では松下電器に入ってよかった。
島耕作を通じて味わうサラリーマン人生
―― 島耕作は相談役を最後にTECOTを去り、現在はいくつかの会社で社外取締役を務めています。この先、どこまで続くのですか。
弘兼 最後は「病院島耕作」になるかも知れない(笑)。
ただ僕としてはコーポレートガバナンスの問題やコンプライアンスについてのメッセージを出し続けていきたいと考えています。やはり会社というのは利益追求集団ではいけない。社会の公器であって、企業活動を行うことで社会や地域にどれだけ利益をもたらすことができるかを考える必要があります。
海外に進出するにしても、どこかの国のように単に利益を吸い上げるだけではなく、まずは現地にきちんと利益を落とし、その後自分たちが利益を得る。ギブアンドテイクではなく、最初はテイクアンドテイク。それが海外進出にあたって必要だと僕は考えます。
―― 松下幸之助の考え方に通じますね。
弘兼 幸之助さんにはとても影響を受けていますから。僕らは全共闘世代です。ところが松下電器に入社すると、毎朝、「一つ 産業報国の精神」から始まる「遵奉七精神」を唱和させられるわけです。最初はこれが嫌で嫌で仕方なかった。でも3年もたつと、その意味が分かってきて、自分はなんて浅はかな学生だったのかと思うようになる。その精神は今に続いています。
―― 最後に、弘兼さんにとって40年間描き続けた島耕作とはどのような存在ですか。
弘兼 島耕作は自分自身がつくったキャラクターですが、もう一人の自分のような存在になっています。僕のサラリーマン人生は3年間だったけれど、島耕作と一緒にサラリーマンをやり続けているような気分です。