映画製作・配給大手の松竹、東映が、デジタルマーケティングを手掛けるフラッグと組み、映画マーケティングのDXを目的とするプロジェクトを開始した。3社の映画宣伝・マーケティングのプロが一堂に会し、プロジェクトの内容と、その背景にある映画界の課題について語ってくれた。聞き手=小林千華 Photo=横溝 敦(雑誌『経済界』2025年2月号より)
顧客データが活用できない。映画配給会社の苦悩
―― 2024年7月、松竹、東映、フラッグの3社合同で「シネマDXプロジェクト」の開始を発表されました。映画マーケティングのDXを図るのが目的とのことですが、本題に入る前に、まず皆さんのご経歴や現在のポジションについてお聞かせください。
松竹・山中 私は松竹で、映画館勤務や編成なども経験しつつ、映画宣伝に長く携わってきました。現在は松竹本社の執行役員の他、グループの広告代理店機能を持つ松竹ナビでも社長を務めています。
東映・出目 私も映画宣伝のキャリアが長いです。1994年に東映に新卒入社し、2009年に一度退職。ワーナー・ブラザースでマーケティングを経験し、21年に東映に戻りました。24年4月には映画事業部門の部門長に。同年6月からは執行役員も務めています。
フラッグ・久保 僕は東京大学在学中の01年にフラッグを創業しました。当社では映画やアニメ、ゲームなどのエンタメ領域を中心に、デジタルマーケティング支援を手掛けています。僕は昔から映画好きだったのですが、優秀なクリエーターでもなかなか食っていけない産業構造に違和感を抱き、エンタメ界をビジネス面から支えたいと考えて起業しました。
創業当初は映画キャストのインタビューやイベントの様子など、映画宣伝のための関連映像を制作するところから始まり、08年頃からパブリシティを手掛けるように。ウェブメディアへのパブリシティを先駆けて行い、10年頃からはSNSでのプロモーションも開始しました。現在までに1千本以上の映画・エンタメ作品のデジタルマーケティングを担い、業界内でポジションを確立してきました。
今回われわれが合同でプロジェクトを開始したのは、映画業界に共通するマーケティング上の課題を解決するためです。
―― どのような課題でしょうか。
フラッグ・久保 松竹や東映といった大手映画会社は、製作、配給、興行までの機能をグループ内に全て持っています。松竹ならMOVIX、新宿ピカデリーや丸の内ピカデリーなど、東映ならティ・ジョイ、新宿バルト9など、それぞれ系列の映画館があります。
さらに特殊なのが、基本的にどの映画館でも、他社配給の作品も上映するのが一般的であること。松竹系列の映画館であっても、東映配給の作品がごく普通に上映されますよね。トヨタのディーラーで日産の自動車を販売するようなもので、他業界であまり見られない構造だと思います。
その結果、配給会社は他社系列の映画館が持つ顧客データを入手できません。オンラインチケットもそれぞれの映画館のサイトでしか購入できない場合がほとんどで、配給会社が購入者データを得ることはできません。作品宣伝を行うのは配給会社なので、効果的なマーケティングのために正確な顧客データが欲しい。しかし他社とのデータ連携が難しい業界特性のため、十分なマーケティング活動が行えない実情があります。
例えばある映画作品の続編を宣伝する場合、1作目を見た人をターゲティングして広告を打てば、続編も見てくれる可能性が高い。しかしそれができないので、作品に興味関心を持ちそうな層に「なんとなく」広告を打つしかなかったんです。
松竹・山中 松竹でも00年代に入ってから、業界として早い段階で、マーケティング調査を手掛ける部署が立ち上がっています。出口調査やアンケートのような方法で顧客分析を行ったり、調査会社が発表する認知度調査などのデータを自分たちで分析したりといった活動が中心でした。
それに加えて、実際に映画館でお金を払って作品を見てくれたのがどんな方なのか、その方がどんな動きをしているかが分かれば、より効率的な宣伝活動ができる。分かっていてもできなかったのです。
―― 他業界なら、マーケティング活動にあたって顧客データの活用は大前提です。そうした映画界の課題は日本独自のものなのでしょうか。
東映・出目 アメリカでは、独禁法の規定で配給会社が系列の映画館を持てないことになっていて、作品ごとに映画館と契約を結んで上映します。その意味では、日本よりも配給と興行の距離が遠い。
それに比べれば日本の方がデータを活用しやすい環境だったと思いますが、壁がなかなか崩せなかったということですね。
フラッグ・久保 「シネマDXプロジェクト」は、こうした課題の解決に向けた取り組みです。具体的には、「①顧客データを活用したデジタル広告プラットフォームの開発・提供、②映画宣伝のDXと人材育成の推進、③映画館のDXによる来場促進施策拡充」の3点で、映画マーケティングのDXを図ります。
特に①のデジタル広告プラットフォームでは、複数の映画会社、映画館が持つ顧客データをマージして、一緒に活用できるようにします。現在松竹グループは全国26劇場251スクリーン、東映グループは全国20劇場187スクリーンの映画館を運営しています(ともに他社との共同事業体を含む)。これらの顧客データ(一部共同事業体を除く)がシェアされることで、両社ともより効果的なマーケティング活動ができるはずです。
また、まずはわれわれ3社でプロジェクトを開始しましたが、今後他の映画会社にもこのプラットフォームを提供し、活用し合える顧客データの総量を増やしていく予定です。27年には3億円以上の取扱高を目標にしています。
―― 確かに松竹、東映両社にとってメリットのあるプロジェクトですが、競合同士どのような流れでタッグを組むことになったのでしょう。
松竹・山中 われわれ2社から久保さんにお声がけした、というのが近いですね。映連(※1)のつながりもあり、東映の皆さんとは定期的に、いろいろな形で交流があります。その中で、今後映画界でもDXをもっと推進していかなければならないというお話になり、久保さんに相談を持ち掛けたような流れでした。
フラッグ・久保 先ほどお話ししたように、映画界では自社系列の映画館で他社配給作品を上映するようなことも多いので、それほど競合同士の壁は高くないと思います。
むしろ現代において、映画会社のライバルは同じ映画会社ではなく、映画以外のあらゆるエンタメですから。可処分時間の奪い合いが激しくなる今、業界の中で戦い合うよりも、一緒に映画の地位を高めていくことが大切だと認識している映画会社は多いはずです。
フラッグとしても、これまで映画マーケティング上の課題は認識していながら、われわれは顧客データを保有していないため有効な手を打てなかった。松竹・東映の2社と一緒にやれるならぜひやりたいということで、プラットフォームの開発をご提案し、実現に至りました。
東映・出目 当社内でも、非常に期待値の高いプロジェクトです。これまでは宣伝効果の測定も正確にはやり切れなかったのですが、今後はより豊富なデータに基づいて、マーケティング活動のサイクルを回していけると期待しています。
―― 国内で興収シェアトップを誇る東宝は、マーケティングや宣伝の面でも優れていると感じますか。
フラッグ・久保 東宝さんは23年8月、当社と同じくデジタルマーケティング、宣伝を手掛けるガイエを子会社化しています。また、TOHOシネマズの顧客データを活用した広告商材の販売を行うなど、われわれが今回始めたような取り組みも、早い段階から独自に始めていました。やはりそれに比べると、他社は出遅れていた面がありますね。
ただ今回、松竹・東映という業界内でも存在感の大きい2社が組むことで、他の大手にも「負けてられない」という危機感を抱かせることになる。映画界全体で他のエンタメとの戦いに勝っていくには、こうした循環がすごく大切なはずです。その意味でわれわれのプロジェクトは、間接的にも映画界にイノベーションを起こすきっかけになると思います。
感覚と戦略の融合が映画マーケティングの面白さ
―― プロジェクトの中には、映画宣伝の人材育成も含まれていますね。
フラッグ・久保 映画界でも人材不足は大きな問題です。23年、映画製作現場の労働環境改善を目指す組織「映適(※2)」ができましたが、近年宣伝の現場でも同じように、労働環境を見直す動きが進んでいます。
しかし、映画界に限らず人材不足な中、若い人が業界に入ってくる門戸が狭いのも問題だし、人材の流出も防がなければならない。若手人材を中心に、デジタル面のノウハウも含めた映画宣伝の教育をしっかり行って、早く自走できるようにトレーニングするのもひとつの目的です。
僕が起業した当時の映画界は、クリエーターを中心に、「好きでやってる」人たちが回している印象でした。でもこれだけコンテンツ産業の可能性が大きくなってきた今、マーケティングをはじめ、ビジネス面をしっかり強化していかなければならないと思います。
松竹・山中 確かに昔は、監督やプロデューサー、キャストなどが作りたい作品を作り、世に送り出していた面もあると思います。とはいえ00年代以降は、お客さま目線でしっかり売れる作品を作っていこうという風土に変わってきていますよ。
東映・出目 当社にももちろんその文化は根付いています。しかしわれわれの場合、東京、京都にそれぞれ撮影所もありますから、クリエーターサイドの声をより強く反映しながら製作している面もあります。
エンタメという分野においては、クリエーターの方々の感覚やパワーが本当に強いんですよね。23年の興行収入国内トップに輝いた『THE FIRST SLAM DUNK』も、原作者の井上雄彦先生が監督・脚本を務めた作品で、マーケティング的な予測よりも、クリエーター陣の感覚と作品のパワーを信じ、宣伝戦略を練りました。
手に残る商材ではなく体験を買うのがエンタメなので、データを分析して売れるものを考えるのも大事ですが、それだけではないんじゃないでしょうか。むしろ、感覚と戦略のバランスをどうとるかが面白い。
松竹・山中 そうですね。もし今後AIがすごく緻密にマーケティング調査を行って、「売れる作品」を導き出したとして、その通りに作っても必ず当たるわけじゃないと思う。不思議な何かが必要なんですよ。
産業全体で海外展開を目指す。ビジネスサイドからの支え方
―― 今後映画界の中で、マーケティングを通してどういった役割を果たしていきますか。
松竹・山中 松竹に限らず、今のコンテンツ業界の大きな目標は海外展開の拡大ですよね。同時にわれわれは、映画に加え歌舞伎なども手掛けていて、日本の伝統文化も背負っています。どういったものが評価されるかマーケティング施策をしっかり練ると同時に、日本の伝統を国内外に向けて発信していくことも、重大な役割だと考えています。
東映・出目 東映は33年に向けた中長期経営VISIONで、海外からの売り上げが全体の50%を占めるポートフォリオを目指しています。われわれには「仮面ライダー」、「スーパー戦隊シリーズ」といった強いIPもあるので、海外で引きのあるコンテンツを今後も模索し、作り続けていきたいですね。
それに関連して1970年代に当社が手掛け海外輸出した『超電磁マシーン ボルテスV(ファイブ)』というロボットアニメが長年にわたりフィリピンで人気を博し、現地で2023年に実写ドラマ化されるという出来事がありました。海外に向けて新しいコンテンツを生み出すだけでなく、われわれが既に持っているものの魅力を見直して生かすことも、マーケティング活動の一環だと考えさせられた出来事です。
フラッグ・久保 コンテンツ産業の輸出額は近年、半導体と同程度の4兆円台にまで成長しています。実はものすごく外貨を稼げる産業なのに、今はそれを十分に生かせていない。もし今後自動車や半導体が売れなくなったら、この国が何で食っていくかといえば、コンテンツしかありません。
でも、その中で一番成長しているアニメ界ですら、クリエーターにお金が回らない状況が続いている。是枝裕和監督などクリエーター側でアクションを起こす方々も増えていますが、われわれもビジネス面の効率化でサポートし、コンテンツ界全体を盛り上げていきたいです。
※1 日本映画製作者連盟(映連):映画製作配給大手4社(松竹、東宝、東映、KADOKAWA)による団体。映画産業の振興を目的に、公的機関、関連団体との折衝や国際映画祭への参加などを行う。
※2 日本映画制作適正化機構(映適):映画製作を志す人々が安心して働ける環境をつくるため、映画界が自主的に設立した第三者機関。労働環境などが適正と認定された作品に『映適マーク』を表示する、新しい認定制度を設けた。