短期集中連載 トップインタビュー 第2回
JR神田駅のホームに立つと聞こえてくる「お口、クチュ、クチュ。モンダミン♪」のメロディは、一昨年10月にアース製薬が同駅のネーミングライツを取得した時から使われている。100周年記念事業の一環だが、プロジェクトがどうやって生まれたのか、川端克宜社長に振り返ってもらった。聞き手=関 慎夫 写真=横溝 敦(雑誌『経済界』2025年4月号より)

かわばた・かつのり──1971年兵庫県生まれ。94年に近畿大学商経学部(現・経営学部)を卒業しアース製薬入社。役員待遇営業本部大阪支店 支店長、取締役ガーデニング戦略本部 本部長などを経て、2014年3月代表取締役社長に就任した。
社員の何げない雑談から始まった神田駅の副駅名
── 先日、神田駅(JR山手線、中央線、京浜東北線)に降りた時は本当に驚きました。発車ベルがCMソングの「お口、クチュ、クチュ。モンダミン♪」のメロディになっていました。しかも駅名看板には「神田」の文字の横に「アース製薬本社前」の文字が並んでいる。さらには出口ごとに「モンダミン口」「アースジェット口」「バスロマン口」「サラテクト口」と、アース製薬の製品名が入っています。
川端 一昨年、神田駅のネーミングライツを取得しました。JR東日本の駅名に企業名が入るのはこれが初めてです。また発車ベルに関しては、高田馬場駅で鉄腕アトムが流れていますが、CMメロディが使われたのも神田駅が初めてです。
── どういう経緯でネーミングライツを取得することになったのですか。
川端 アース製薬は今年設立100周年を迎えました。ステークホルダーの皆さまへの感謝を表す企画を考えていましたが、神田駅のネーミングライツは社員の雑談の中から出てきたアイデアです。発言者は「こんなことできたらいいね」とジョークのつもりで言ったのに、「それは面白い」とその場にいた社員が食いついた。それがそもそもの始まりでした。
私を含め社員のほとんどが「そんなことできるわけないだろう」と思ったはずです。今まで前例がなかったわけですから。ところが動いてみたら、思いのほかうまくことが運んで、2023年10月2日から、神田駅の副駅名はアース製薬本社前となりました。
私がうれしいのは、ネーミングライツを取得できたことよりその過程にあります。「できたらいいな」と思ったことを、まず行動してみる。そして会社も後押しする。それができる会社であることを証明してくれました。
もちろん、ネーミングライツを得るには、単にJRと話を進めるだけでなく、地元商店街や町内会の了承を得なければなりませんでした。そうした交渉を一つ一つまとめていって実現にこぎ着けた。本当によくやってくれましたし、その知見は会社の財産として残っていきます。
── 周囲からはどのように評価されていますか。
川端 「すごい」「よくできたね」と多くの方から言っていただきました。お世辞半分かもしれませんが、誰も考えなかったこと、今まで誰もやらなかったことを評価していただけたのだと思います。
トップダウン型経営からボトムアップ型経営へ
── 当然のことですが、ネーミングライツを取得するにはそれなりのコストがかかります。それに見合うだけの売り上げの増加はあったのでしょうか。
川端 正直言って、売り上げのことはまったく考えていませんでした。これは2012年から続けている女子プロゴルフツアーの「アース・モンダミンカップ」でも同じです。トーナメントの開催には多額のコストがかかります。でもそれで売り上げが上がるかどうかを考えても仕方がない。それよりも社会貢献としての意義のほうがはるかに大きい。同時に、こういうことができる会社であることに社員が誇りを持ち、モチベーション高く働いてくれるきっかけになれば、ひいてはそれが業績にもつながってきます。
アース製薬にはグループで5千人近い社員がいます。社員一人一人、考え方も感受性も異なります。ただ会社として、一つの方針を立ててそれに向かって進んでいく。しかも社員それぞれが考え、実行に移していく。その点については同じ思いを持っていることが必要です。100周年事業やアース・モンダミンカップはそれを再確認する機会になっていると思います。
── 神田駅のネーミングライツはボトムアップで出てきたそうですが、少し前までのアース製薬はトップダウン型の会社だったように思うのですが。
川端 前回(連載第1回)もお話ししたように、アース製薬が大塚製薬グループ入りした当時(1970年)の経営状況は非常に厳しかった。それを特別顧問(大塚正富氏)と大塚(達也)会長が2代にわたって再建、成長させてきました。そのためにはスピードも必要でしたし、オーナー一族としての求心力もあった。必然的にトップダウンの経営になったわけです。
ところが私はオーナー家の人間ではないですし、11年前に社長に就任した時は42歳でした。別に若いからといってやりにくいということもなかったですが、求心力など持ちようがない。ですからトップダウンはもともと不可能でした。しかも会社の規模も、大塚会長が社長を引き受けた時(1998年)の売上高は連結で約600億円ほどだったのが、私がバトンを受け取った時にはすでに1千億円ほどありました。これだけの会社を動かしていくのは、ボトムアップで進めるしかありません。
ですから、社長になると同時に会長に対して「これからはボトムアップ」でやっていきますと宣言しました。ただ、トップダウンに比べて時間がかかるケースも出てきます。そのデメリットをなくすためにも、社員が自ら考え、失敗を恐れずにチャレンジしていく必要があります。社長就任から10年あまりがたち、今ではそういう企業文化が根付いてきたように思います。(第3回に続く)

■第1回「技術力」「常識にとらわれない」「お客さま目線」で迎えた100周年