ANAホールディングスの社長、会長を歴任し、同社の国際化に大きな貢献を果たした大橋洋治氏。現在では少なくなったスケールの大きな経営者の1人だ。幼少時代の苛烈な戦争体験、両親から受けた影響など、「危機に強い男」と呼ばれた同氏の原点に神田昌典氏が迫る。(構成=本誌/吉田 浩 写真=森モーリー鷹博)
戦後激動期の強烈な体験
神田 大橋さんといえば、満州生まれで戦後の激動の時代を経験されたビジネスマンです。当然、数多くの危機も経験されているとうかがっています。幼少期には満州からの引き揚げでソ連軍からの逃亡生活、そして全日空入社直後に羽田沖での墜落事故、社長就任の年には、アメリカ同時多発テロがありました。そんな中で、最も印象深いのはどの出来事でしょうか。
大橋 やはり、幼少期の記憶としてソ連軍からの逃避は強烈に残っていますね。当時、父は兵役中で、5歳の私と母の2人で、まさに命辛々で逃げてきました。あの頃、子どもを連れて逃げるのは大変なことで、後から置き去りにされた子どももたくさんいたと知りました。私がそうならなかったのは、ひとえに母が私の手を離さなかったからなんです。
神田 かなりの距離を逃亡されたと聞きましたが。
大橋 当時住んでいた佳木斯(ジャムス)という町の家の裏に爆弾が落ちて、そこから逃亡生活が始まりました。周囲は女、子どもと老人だけでした。それから、やたらと雨が降っていたことを覚えています。無蓋車で牡丹江(ぼたんこう)まで逃げたのですが、すぐにソ連軍が来ると言われたので、いったん引き返してハルピンに向かいました。
神田 当時は、子どもを置き去りにしたり、赤んぼうなどは泣き声で見つからないように、可哀想ですが手に掛けたり、ということもあったと聞いています。
大橋 直接目にしたことはないですが、あったでしょうね。それほど切迫していたんです。私もろくに食べられなくて、声も出なかった。日本に引き揚げた頃は、栄養失調だったと思います。
神田 まさに、歴史の生き証人だと思います。得てして自分が危機に直面しているとき、それがどんな危機なのか、どう対応すべきかという判断はとても難しいですよね。
大橋 判断はとても大事です。満州からの引き揚げでは、私はいつも母に手を引かれていました。最終的に引き揚げ船で博多に帰りましたが、すべては母の判断です。どこかで1つ間違えていたら、2人とも帰ってこれなかったでしょう。
神田 そうした記憶が、後に生かされたということはないのでしょうか。
大橋 具体的に何が影響したかは分かりませんが、たいていのことには耐えられると思っていましたね。あれよりも辛いことなんてない、と。
神田 お父さまは、シベリア抑留後に帰国されたそうですね。
大橋 父は当時の話をあまりしたがりませんでした。ただ、父は大柄で体重も100キログラムを超えていたのですが、帰国した時には痩せさらばえていたのをよく覚えています。帰国した時に庭にいた私に、「洋治」と声を掛けてくれたのですが、父だとすぐには分からなかったほどです。
誰も注目しない日中貿易を研究
神田 お父さまが帰国なさってからは、比較的安定した生活を送っていたのですか。
大橋 おかげさまで、大学まで行かせてもらえました。
神田 面白いと思ったのは、大学で日中貿易の勉強をされていることです。当時、中国との貿易なんて、誰も注目していなかったと思うのですが。
大橋 ゼミのテーマが中国で、中国に関係することなら何をやっても良いということでした。同級生はみんな、魯迅や西安事件などをテーマにしていたのを覚えています。ただ貿易については、先輩後輩を含めても私以外誰も研究していなかった。当然ですが、資料もなかった。古書店を回ってやっと見付けた資料が思想色の強い本で、先生に「そんなものを資料にするな」と怒られました。そこで、夏休みに父に相談したところ、岡崎嘉平太という人がいるから、その人に聞いてこいと。父はもともと貿易をやっていて、地元の岡山の財界に知人が多かったんです。
その岡崎さんは、当時全日空の2代目社長でした。恐れ多くも、当時の全日空のオフィスに行って、話を伺いました。岡崎さんは今でも習近平や江沢民の口から名前が出るような方ですから、本当に勉強になりました。
神田 それが全日空との出会いなんですね。でも、そもそも中国貿易に興味を持ったのはなぜでしょうか。
大橋 満州生まれということもありますし、父が貿易商だったことも影響しています。また、大学のゼミで師事した石川忠雄先生の影響も大きかったですね。
就職先は全日空しか考えなかった
神田 大橋さんが大学生だった当時、まだ全日空は国内線だけの時代でしたよね。
大橋 当時は年商が100億円前後の小さな企業でしたよ(笑)。
神田 そういう意味では、今とはかなり雰囲気が違ったのではないでしょうか。
大橋 私が入社した頃、会社ができて12年目くらいだったと思うのですが、私の社員番号が1800番くらいだったんです。在籍していたのは数百人でしたから、1千人くらい辞めていっている。人の出入りが激しい若い会社でした。
神田 今でいうベンチャー企業ですね。
大橋 入社した頃、いつかは国際線に打って出るという志を持っていました。でも大学の友達に「全日空」と言っても誰も知らない。「日本航空じゃないのか?」と問い返される。当時、日航は雲の上の存在でした。
神田 就職活動では、ほかにどんな企業を考えていましたか。
大橋 私は、全日空しか興味がなかった。でも父は関係があったブリヂストンに入れたいと考えていました。私が頑なに断るものだから、ほかに何社も受けろと紹介してくるんです。断りきれなくて受けたら受かってしまい、すぐに断りに行った会社もありました。周囲には本当に申し訳ないことをしました。
神田 そこまで当時の全日空にほれ込んだ理由は何なのでしょうか。
大橋 会社の雰囲気が素晴らしかった。当時、航空會舘というところに社長室があったのですが、社長室だというのに古い。しかも社員がどんどん出入りして、ドアが閉まることがない。そんな会社があるんだと驚きました。これは社長と社員の仲が良さそうだ、良い会社に違いないと。また、先ほど話したように、当時はこれから国際線に進出するぞという雰囲気が強かった。学んだ日中貿易の知識が生かせるに違いないという気持ちもありました。
神田 会社の雰囲気が一番だったのですね。今では会社の規模も時代も変わっていますが、変わっていない部分というのはあるのでしょうか。
大橋 風通しの良さは今も変わっていないと思います。それから、いざというとき、最後の最後には「なにくそ!」という粘りがある。「現在窮乏、将来有望」という言葉があります。これは、全日空の前身である日本ヘリコプター輸送の創業者、美土路昌一氏の言葉なのですが、まさに全日空をひと言で表していると思っています。
必ず国際線に出ていくと社員全員が思っていた
神田 大学で学ばれた日中貿易にせよ、当時はまだベンチャー企業だった全日空への入社にせよ、あまり人が選ばない道をあえて選ばれているという気がするのですが。
大橋 父の影響が大きいのかもしれません。父は昔、私を全く褒めなかったんです。私には幼い頃に亡くなった兄がいるのですが、父は「お前の兄は偉かった。素晴らしかった。でもお前は出来損ないだ」と言われていました。ただ同時に「お前の名前は素晴らしいんだ」と言ってくれる。私の「洋治」という名前は、父が付けたのではないそうです。父が貿易の仕事で洋上にいた時、私が産まれたと電報で連絡が入り、それを船長に話して、名前を考えてくれとお願いしたということです。すると船長が、「洋治」と付けてくれた。これは「大平洋を治める」という意味だそうです。そんなスケールが大きい名前を持つお前だから、きっと偉くなると言ってくれました。私も単純なもので「なるほど、そうなのか」と思っていたんですね。だから今でも自分の名前は大好きです。
そういうこともあり、スケールが大きなことにはいつも興味がありました。そこに満州で過ごした自分の経験が絡み、世界に羽ばたいていこうとするベンチャー企業だった全日空の雰囲気がマッチしたのかもしれないですね。
神田 国際線進出や、大橋さんがずっと唱えられていた「空のシルクロードをつくる」という構想も、お名前と合致していますね。
大橋 幼い頃からそういうことを言われてきましたから、自然と自分の考えもそうなったのでしょう。全日空の社歌の歌詞には、国際線に羽ばたいていくぞという内容の言葉があるのですが、世間的には「何をできもしないことを言っているんだ」という雰囲気でした。しかし、私を含め社内では、遅かれ早かれ国際線には行くし、そこからが会社が成長する本番なんだという気概に満ちていましたね。
神田 なるほど。エネルギーにあふれる会社だったんですね。次回は、入社後、そして経営者になってというところのお話を伺いたいと思います。(後編に続く)
(かんだ・まさのり)経営コンサルタント、作家。1964年生まれ。上智大学外国語学部卒。ニューヨーク大学経済学修士、ペンシルバニア大学ウォートンスクール経営学修士。大学3年次に外交官試験合格、4年次より外務省経済部に勤務。戦略コンサルティング会社、米国家電メーカー日本代表を経て、98年、経営コンサルタントとして独立、作家デビュー。現在、ALMACREATIONS 代表取締役、日本最大級の読書会「リード・フォー・アクション」の主宰など幅広く活動。
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