今回のゲストは楷書の第一人者で泰書會会長を務める柳田泰山先生(柳田家4代目)。経済界創業者・佐藤正忠が書を習っていたのが泰山氏の父親の3代目・泰雲氏でした。親子2代にわたる交友がつないだ今回のご縁、受け継がれる書の真髄に触れる場となりました。
柳田泰山が抱く書家に対する思いとは
佐藤 以前、泰山先生の「席上揮毫(せきじょうきごう)」という、人前で大きな書を書くパフォーマンスを観て、その迫力と書の美しさに圧倒されました。あれは何メートルくらいの大きさでしたか。
柳田 5メートル四方ですね。筆だけで20キロ近くありますよ。
佐藤 重いですね。観に来られていた方も有名人が多数いらっしゃいました。書家というと気難しい先生方を思い浮かべますが、泰山先生は気さくでチャーミングですよね。
柳田 チャーミングではないですけれども(笑)、偉ぶっている人は僕も嫌いです。席上揮毫は最近の若手書家の流行りですが、実際は明治時代からあるもの。もっともあんなものは芸術ではありません。5分で書き上がるものを、もったいぶって演出して見せているだけですよ。
佐藤 はっきり仰いますね(笑)。
柳田 それでも書道は閉鎖的な世界ですから、多くの人に興味を持ってもらうには大事なパフォーマンスで、僕のイベントでも弦楽四重奏を流したりもします。書家も自己満足で終わらせず、多くの人に見てもらうという意識は必要です。書のパフォーマンスや映画化などを批判する人もいますが、人々が書に触れるきっかけをつくっているのだから素晴らしいことです。基本がしっかりしているならどんどんやればいい。
佐藤 泰山先生ならではの重い言葉ですね。最近は基本がないまま結果だけを性急に求め、表舞台で目立ちたがる人も多いですし。
柳田 本当にすごい人は表には出てきません。書家なんて社会の片隅で生き、そこで日本の伝統文化の一部でも支えられたらいい。親父の泰雲が「芸術家は一家に一代でいい」と言っています。犠牲になるのはいつも家族だから。僕は親父が亡くなった後、継母と喧嘩別れをし、柳田姓を隠して力を試そうとした時期があります。書の世界では継母の青蘭も有名ですが、行書、草書、篆書が主体です。そうした状況があり、お弟子さんたちから楷書をやってほしいと言われ、僕が始めたという経緯があります。
佐藤 父親の名前の犠牲になるというのは、うちの家族も同じでしたから、お気持ちはよく分かります。泰山先生は柳田家の4代目ですよね。
柳田 そうです。初代・正齋は儒学者で、2代目・泰麓が書道にし、3代目・泰雲が芸術に高め、4代目は先人が築き上げた名前を延命させて完結する。これが柳田流の書を脈々と受け継いでいく僕の考えです。
佐藤 柳田流のお弟子さんはたくさんいると思いますが、ダウン症の書家として活動する金澤翔子さんもそのうちの一人ですよね。
柳田 もともと翔子さんのお母さんは泰雲のお弟子さんでしたが、親父が亡くなったときに、「楷書でお経を書きたい」と僕のところに来たんです。そこで娘さんのことを聞き、引き受けました。翔子さんには厳しく指導し、本人も泣きながら書いていましたが、よく耐えましたね。彼女は仏心伴う人間性を持つからこそ、見る人を感動させる書を書けるのだと思います。
故・佐藤正忠が柳田泰山に与えた焼印のように背中に残る言葉とは
佐藤 泰山先生は「百寺納経」をされていますが、25歳のときの新義真言宗総本山根来寺の約1年半の修行がきっかけだそうですね。
柳田 そうです。3~4日で2800字を書き、それ以来、細かい字を書けるようになりました。百寺納経は親父が生前できなかったことでもあるので、僕がやろうと。ただ仏門に入ったのは、仏心があったからではなく、当時街で遊びほうけていて、親父に家を追い出されたからです。
佐藤 若いころはやんちゃだったのですね。私の父・正忠とのエピソードはありますか?
柳田 正忠さんは「守破離」という言葉を僕にくれました。今でも焼印を付けられたかのように離れません。いかに守り、破り、離れるかが問われますが、柳田流の書家としてそこに抵抗しています。徹底的に親父の真似をして、柳田流を守り抜いてやろうと。その努力があれば、自分の世界が開けるでしょうし、開けなければ努力不足だと。歳を重ねるごとに「守破離とは」という思いが胸を去来しますが、80歳を超えれば自然と分かるのかもしれません。
佐藤 父の言葉がそんな影響を与えていたとは! 今日お話を伺って、書にますます興味が湧きました。ありがとうございました。
似顔絵=佐藤有美 構成=大澤義幸 photo=佐藤元樹
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