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全車種製造中止の異常事態に陥ったダイハツ認証不正「真の原因」

昨年末以降、ダイハツ工業では全工場の操業が停止するという異常事態に陥っている。理由は、長年にわたって製造許可を取るための認証に不正があったため。かつては「真面目」で知られたダイハツが、なぜこのような不正に手を染めたのか。歴史的経緯を踏まえ検証する。文=ジャーナリスト/伊藤賢二(雑誌『経済界』2024年3月号より)

174件の不正が発覚。創業再開のメド立たず

 きっかけは東南アジア向けモデルにおいて、衝突安全試験の不正行為があったことが内部告発により発覚したことだった。2023年4月のことだ。

 不正発覚を契機に開始した社内総点検は長期化をきわめ、その間にクルマを発注した顧客へのキャンセル要請、人気モデルの突然の生産終了など混乱が続いた。

 第三者委員会による調査報告書が公表されたのは年の瀬も押し迫った同年12月。結果は生産終了モデルも含めグローバルで64車種と3つのエンジン、うち国内向け28車種と1エンジンについて、計174件の不正が確認されたというものだった。現在販売されているクルマは国内、海外向けとも全てに不正が認められたことから全車種生産停止。稼働再開の見通しは立っていない。

 ダイハツ工業の不正はクルマの事実上の製造許可である型式指定の基盤となる認証に関するもの。「この構造や製造法を守っている限り、生産した1台1台試験を行わずとも全車両が環境や安全などの法令に適合したものになると認定します」という国土交通省の〝お墨付き〟だ。

 その認証に大規模不正があったというのは国交省の心証は最悪で、万が一その型式指定が取り消しとなれば、もう一度認証をやり直して再取得するまでクルマを作ることができなくなる。それだけは何とか避けたいダイハツの奥平総一郎社長は昨年12月20日の記者会見で「認証は自動車メーカーが事業を行う前提。それを軽視していたと言われても仕方がない」と平謝りだった。

 が、第三者委員会の見解はおかしなところだらけだった。委員長の貝阿彌誠弁護士は「(コスト削減に効く)開発期間の短縮を強行する中、デザインや開発のスケジュールに押されて認証は時間的余裕を失い、不正を犯さざるを得なくなった。これは経営陣の責任」と、経営陣を厳しく糾弾しつつも、「管理職や執行役員が関与したという証拠は見つからなかった」と、不正自体はあくまで現場の判断によるものという見方に終始した。

 ライバルメーカーの品質部門OBは言う。

 「上が何も知らなかったということなどあり得ない。自動車メーカーはどこも社内で厳しい業務監査を行っていて、相当に細かい問題まで把握し、報告を上げています。それに認証業務の経験者で上のポジションに行った人だっているでしょう。身に覚えがあるのに何も言わないというのは、上が知らなかったというのとは違う」

 冒頭で述べたように認証不正が露見したきっかけは内部告発であったという。その内部告発についても、「豊田章男・トヨタ会長がダイハツの滋賀工場で『告発してくれた人ありがとう』などとパフォーマンスを演じていましたが、生産部門はそもそも認証業務のことなど完全に専門外で、基本的に何も知りません。ましてやそこで不正が行われているなんて想像もつかないこと。内部告発ができるのは開発部門、それも認証とその周辺で日々圧迫を受けていた人物くらい。内部通報ではなく社外機関への告発だったそうですから、上からの無茶な要求に抵抗した挙句退職した人物だったかもしれませんね」と、管理職や経営陣がデータ改ざんや不正試験を要求したも同然の扱いが常態化していたとの見方を示す。

真面目な企業体質が変質していった理由

 ダイハツが昔から隠蔽、不正体質を持っていたように読み取れる報告書に疑問を示す向きもある。

 「確認できた最も古い不正は1989年とありました。同僚数人と会見を中継で見ながら言っていたんですよ。おいおい、そんな製造物責任法が陰も形もなく、今の基準でみればどのメーカーも大なり小なりいい加減なことをやらかしていたような時代の話を引っ張り出すのかよ、と。当時、ダイハツは陽気な大阪企業キャラとは裏腹に〝石橋を叩いても渡らない〟と言われたほどクソ真面目な会社で、業界でも一目置かれる存在でした。認証不正が常態化するような崩れ方をしていたのであれば、間違いなく21世紀に入ってからの話だと思う」(別の自動車メーカーのエンジニア)

 現在、ダイハツはトヨタ自動車の100%子会社。トヨタとの提携の歴史は古く、1967年にまでさかのぼる。通商産業省(当時。現経済産業省)が難色を示したことで四輪車に参入しあぐねていたダイハツに対し、三和銀行(現三菱UFJフィナンシャルグループ)が持ちかけた解決策がトヨタとの協業だったのだ。

 最初は資本参加を伴わない業務提携で、2年後の69年に初めてトヨタがダイハツの株式の5・5%を取得した。75年以降は88年から92年の大須賀二郎、2013年から17年の三井正則両氏を除き、トヨタから送り込まれた人物が社長を務めている。

 が、ダイハツは最初からトヨタのグローバル戦略に組み入れられたわけではなかった。少なくとも1995年から2000年まで社長を務めた新宮威一氏の時代までは軽・小型車メーカーとして自主独立路線を歩んでいた。

 トヨタが影響力をあまり行使していなかった時代のダイハツは商品づくり、世界戦略とも独特なものがあった。軽自動車に加えて独自の小型車「シャレード」を作り、それに市販車としては当時世界最小の排気量993ccディーゼルエンジンを搭載し、世界トップクラスの経済車として一躍名を馳せた。海外展開ではトヨタよりはるか前の1984年に天津汽車と提携、86年には「シャレード」の生産を開始した。シャレードはダイハツが中国から撤退した後もライセンス生産という形で作り続けられ、2010年の時点でもまだ激安の新車として販売されるという、まさに〝庶民の足〟だった。

 1993年にはマレーシアのマハティール首相肝煎りの国策自動車メーカー、プロドゥアに資本参加し技術供与。ダイハツの小型車は今日でも東南アジアで強いプレゼンスを持つが、その基盤はほぼ21世紀になる前に形成されたのである。

 そんなダイハツが21世紀に入って次第に変質していく。社長が徐々にトヨタの方ばかりを向いて仕事をするようになったのだ。トヨタ出身でありながらダイハツマンとして求心力を発揮したのは前出の新宮威一氏が最後と言っていい。

 「新宮さんは面白い人でした。東大工学部出身のエリートなのに非常にノリが良く、そして強気。当時、ダイハツは常にスズキの陰に隠れた存在でしたが、新宮さんは『十両だって横綱は倒せる』と皆を鼓舞していました。そして『大阪はやっぱり元気でなければらしくない』と、ダイハツの社風を大事に思ってくれていました」

 かつてダイハツの名物男と言われたとあるOBは思い出を語る。

 その新宮氏が社長在任中の98年、トヨタの奥田碩社長(当時)はダイハツ株の大幅買い増しに踏み出した。持ち株比率をそれまでの34・5%から51・2%の過半数に引き上げ、実質子会社にしたのである。

 株の買い増しによるトヨタとダイハツの関係の変化が顕著になりはじめたのは最後のダイハツオリジナル普通車「YRV」が発売された2000年に新宮氏が会長に退いた頃から。奥田氏は普通車のトヨタだけでなく軽自動車のダイハツ、大型車の日野自動車もシェア40%を取れという檄を飛ばしていたが、それを実行しなければというプレッシャーが本格的にダイハツにかかるようになってきた。

軽自動車シェアトップは獲得したが利益率は低下

 その流れを決定的としたキーマンは05年から11年まで会長を務めたトヨタの生産畑出身の白水宏典氏。会見や懇談会で「何としてでもスズキに勝つ」とたびたび公言し、トヨタの後輩で間接部門出身だった箕浦輝幸社長を走らせて〝乱売合戦〟を仕掛けた。

 スズキはしばらくこれに激しく応戦したが、07年初頭に鈴木修社長は「お行儀の悪い売り方だった。日本市場でそんな意味のない競争をやっている場合ではない」と撤退宣言。ダイハツはその戦いを制して悲願の軽自動車ナンバーワンの座に上り詰めたが、スズキとの収益力の差はむしろ拡大した。

 今回の第三者委員会の報告書でたびたび出てきたキーワード「短期(リーン)開発」に固執したのも白水氏だった。奥平現社長も「リーン開発自体は正しい」とその考えを擁護した。が、設計や実験の陣容を揃えもせずに開発期間を短縮しろ、足りぬ足りぬは工夫が足りぬというのはパワハラの誹りを免れない。

 自動車評論家の一人は語る。

 「今回の第三者委員会の報告書を見て、今まで違和感を覚えていたことがいくつも腑に落ちた。たとえばトヨタブランドで販売され、大人気モデルとなったルーミーですが、車内の広さや価格のお手頃感はともかく乗り心地など商品の作り込みは信じ難いくらい雑。ダイハツの技術力不足かと思っていましたが、不足していたのは技術力ではなく時間とお金だったんですね。リーン開発を謳った商品はどれもそんな感じです。トヨタブランドだから売れたのであって、別にクルマの出来が良かったわけでも何でもなかった」

 16年にトヨタの100%子会社となって以降、ダイハツの社長は公式の場に姿を表すこともほとんどなくなったが、業績は決算公告などで辛うじて確認することができる。売上高営業率は低落の一途を辿っており、前期は売上高1兆4930億円、営業利益380憶円、売上高営業率はわずか2・5%だ。会社全体に軋みをもたらすほどの短期開発を推し進めたかいは全くなかったと言える。

 決して不真面目な会社でも隠蔽体質でもなかったダイハツが徐々にバランスを狂わせ、最終的にひどいデータ改ざんや試験不正で全工場操業停止という事態に至った責任の一端は、トヨタの子会社オペレーションの稚拙さにある。実際に型式指定取り消しの憂き目にあった末に実質ダイムラー傘下となった日野自動車と同じだ。

 トヨタ首脳からは自分は悪くないが子供の不始末の責任を取ると言わんばかりの他責的な発言が多く聞かれる。が、社長を送り込み、出資比率を引き上げ、自らの世界戦略にダイハツを完全に組み入れたのはまぎれもなくトヨタ自身なのだから、まず自分がダイハツをそうした張本人だという自覚を持つべきだ。でないとダイハツは元の真面目なダイハツに戻ることができない。