松本紹圭「ひじりみち」(『経済界』2020年10月号より加筆・転載)
初めてのオンライン法事に臨む
先日のこと。オンラインで会話していた友人が、「実は、明日が亡き父の7回忌の命日なんです。でも、お墓が遠方にあってコロナだから行けなくて」とつぶやきました。
「お経をあげさせてもらいましょうか? オンラインで、音声のみでよければ」とこちらから切り出してみたところ、「ぜひ」という話になり、思いがけず初めてのオンライン法事の機会がやってきました。
音声配信も動画配信も、今どきはスマホ一台で実現できます。ただ、私の場合は「テンプルモーニングラジオ」というポッドキャスト(インターネットラジオ・無料で誰でも視聴可能)を平日の毎朝、配信しているため、より高音質で音声を届ける専用の機材を一式揃えたばかり。普段からコンデンサーマイクとモニターヘッドホンを、USBオーディオインターフェイスを通してパソコンにつないでいます。
オンライン法事の当日は、施主さん指定の夜8時半に、こちらの録音環境をしっかり整えてスタンバイしました。テーブルには録音機材の他、携帯御本尊とお経本も設置しています。
Zoomに加えて、普通の電話、ライン通話、スカイプ、フェイスブック通話 ……無数にある通話アプリの中から、今回はフェイスタイムを選びました。マイクとヘッドホンを装着し、音声のみのコールを入れれば、法事のスタートです。
オンライン法事で気づいた課題
「どうも、松本です。初めてなので、いろいろ想定外のこともあるかと思いますが、よろしくお願いします」 「はい、今日はどうかよろしくお願いします。なんか緊張しますね。ちなみに紹圭さんは、どんな格好をしているんですか?」
音声だけの配信とはいえ、施主さんはこちらの状況も気になる模様。黒い衣と袈裟を身につけて、読経に臨みます。
最初は、三奉請さんぶじょうというお経で、ここは僧侶のみでの読経です。マイクが口元にかなり接近しているものの、マイクを吊り下げ式にしたお陰で、手元には十分なスペースがあり、お経本を開くのも苦労はありません。
法事中、苦労したのは、正信偈しょうしんげを施主さんと一緒に声を合わせて読経する場面でした。オンライン通話では多かれ少なかれ必ず遅延が発生します。施主さんの声は私の読経が耳に届いてからそれに合わせての読経になるので、その声が私の耳に届く時には体感でコンマ5秒くらい遅く聞こえてしまうのです。自分の耳からヘッドホンを外して、いつもの自分一人のペースで読経することで、この場面を乗り切りました。
遅延問題をクリアして順調に読経していると、今度は別の問題が発生。スリープしていたはずのiPadが急に起動して「はい」と喋り出したのです!
画面は「Heysiri」になっています。もしや、お経が原因か。口では読経を続けつつ、お経本を目で少しさかのぼってみると、ありました。
iPadには「必死無量光明土」の「ひっし」が「HeySiri」に聞こえたようです。なんだかおかしくなってしまいましたが、法事中です。冷静さを取り戻し、読経を最後まで続けました。
読経終了後は、法話の時間。かしこまって僧侶から一方的な話をするよりも良いと考え、冒頭に少し仏教のお話しをさせていただいてから、施主さんとの対話で故人を偲びました。
自宅へお経を届けるオンライン法事は「アリ」
振り返ってみて、これは「アリだな」と感じています。今はご法事といえばお寺でやることが多いですが、かつては親戚一同が集まる自宅に菩提寺の住職を招いて勤めるのが当たり前でした。
それがなぜ、お寺で勤めることが主流になったかといえば、イエの感覚が変化し、家族関係が変化し、住環境が変化し、プライバシー感覚が変化した結果、自宅で勤めることが難しくなったからです。
でも、お経を音声で届ける形での法事なら、かつて自宅でお勤めしていた法事の趣旨を、家長であるかないかにかかわらず、一人暮らしでマンション暮らしであっても、安心して自宅で満たせます。夜遅い時間でも問題ありません。
個人的には、映像はない方が良いと感じました。僧侶がお寺の本堂で読経している様子が映像で出てしまうと、「お寺での法事」になってしまって「自宅での法事」の感覚が薄れるからです。
また、映像をオンにすると、施主さん側も家を片付けなければなったり、プライバシーの面が気になるということもあります。
読経も法話も音声のみが隠れた本命か
音だけの法事の良さは、現代特有の面倒を省きながらも、ちゃんと「自宅での法事」感が出るところです。まるで、お坊さんに自宅のいつものお仏壇の前に来てもらって、お経をあげてもらっているような気持ちになれます。その後のフィードバックで施主さんは「異次元の感覚だった」と表現しましたが、共感します。
さて、音声を届けるだけなら、もちろんこれまでも「電話」という技術があったのだから、もう50年も前から可能だったはずのことではあります。
でも何か、今、目の前にある状況はそれとは根本的に違うもののように感じられます。それはなぜか、私の中でいまだ答えは出ませんが、個人的に音声のみの読経がオンライン法要の隠れた本命かもしれないという思いは強くなりました。
釈尊は「一音説法」をされたという説を最近知りました。
『維ゆいまきょう摩経』仏国品には「仏は一音をもって法を演説したもう、衆生は類に随いておのおの解を得る」という記述があります。仏はいつも同一の音声によって説法をするが、衆生の性質や能力にしたがって各々に異なる受け止め方をするということです。音だからこそ、それを受け取った仏弟子の自由なイメージを喚起して、それぞれに「如にょぜがもん是我聞」と言わしめたのかもしれません。考えてみれば、読経も法話も、音です。
「音声だけの読経や法話」に興味を持たれた方は、ぜひ私にお声掛けください。「そういえば近く、故人の命日がくる」「お墓まいりの時に、声だけでもお坊さんの読経が欲しい」「ちょっと人生に区切りをつけるために、儀式っぽいことがしたい」など、どんなシーンでもかまいません。
ブッダのように「一音」に魂を込めて、音の可能性をさらに追求してみたいと思います。
筆者プロフィール
(まつもと・しょうけい)東京神谷町・光明寺僧侶。未来の住職塾塾長。東京大学文学部卒。武蔵野大学客員准教授。世界経済フォーラムYoung Global Leader。海外でMBA取得後、お寺運営を学ぶ「未来の住職塾」を開講。著書に『お坊さんが教える心が整う掃除の本』(ディスカバートゥエンティワン)●Twitter ID shoukeim●komyo.net