国内外に1700店舗強を展開するモスフードサービス。モスは過去に創業者の死去に伴う社内の混乱や、食中毒事件などさまざまなピンチに直面してきた。それを櫻田厚会長はどう乗り切ったのか、その胆力はいかに鍛えられたのかを聞いた。聞き手=外食ジャーナリスト/中村芳平 Photo=横溝 敦(雑誌『経済界』2022年11月号より)
目を覚ましてくれた台湾女子社員の諫言
―― 櫻田さんがリーダーとして認められたのは、37歳の時に台湾に赴任し、合弁企業「安心食品服務」の副社長(事実上の創業社長)として、モスバーガー事業を成功させたのが大きかったのではないですか。
櫻田 あの時は社長の櫻田慧(以下創業者)から「台湾に行け」と命令されて単身赴任しました。台北市内にオフィスを開設、通訳を雇って創業メンバー8人(男性4人、女性4人)と面談しました。台北市の繁華街に1号店「新生南路店」(65坪100席以上)を開店したのは1991年2月のことです。何もかも初めての経験。設計やデザイナー、厨房機器、建設資材などほとんどを日本から調達しました。
設計料は往復の飛行機代込みで450万円、総投資額6200万円。月商目標400万円。「新生南路店」の開店セレモニーには創業者も出席しました。その際創業者からは、「6200万円かけたらその倍の年間1億2400万円が損益分岐点。月商400万円の不採算店を作ってどうする。バカヤロー」と叱られました。
そこで2号店では店舗づくりの現地化を進めました。台湾では設計士とデザイナーが一緒。紹介された先に発注したら「設計料+デザイン料」がたったの20万円。建設資材なども現地調達、結局2号店は総投資額2500万円以下。月商400万円で採算に乗る計算でした。
―― 台湾に単身赴任して10カ月目、創業メンバーと会食していた時、日頃の傲慢な態度を詰問されたそうですね。
櫻田 創業メンバーの女性が涙ながらに抗議しました。「櫻田さんはいつも上から目線で指示するだけ。通訳に任せて中国語を覚えようともしない。櫻田さんは『モスの本質は愛だ』というけれど、櫻田さんには愛を感じない」と。これはものすごくショックでした。
その時私は率直に詫びました。通訳を廃し、中国語を本気で覚えると約束しました。最初のうちはタクシーに乗っても一言もしゃべれない。直進、右・左に曲がれも言えず、運転手の後ろのアクリル板を叩いて方向を身振り手振りで指示しました。会社に出ると右左折はどういえばよいのか、筆談で教えてもらいました。それを単語帳に書きとめていきます。テレビの台湾放送を見てヒアリングするなど24時間中国語漬けの毎日。1年ほどして少し日常会話ができるようになり、2年4カ月頃には中国語で意思が通じるようになり、請われて日本語を教えました。
リーダーの私が変わったことで会社は明るくなり、モス事業はものすごくうまくいくようになりました。台湾には90年~96年まで足掛け6年半滞在、その間モスバーガーは1号店から13号店まで展開し、経営基盤を固めました。2011年には台湾の株式市場に上場を果たします。台湾モスの創業を経験したことは私がモスのリーダーとして立つ精神的な拠り所となっています。
創業者の急逝後立て直すのに3年間
櫻田氏は日本に帰国後、取締役海外事業部長、取締役東日本営業部長を歴任するが、1997年5月に創業者がくも膜下出血で急逝する。60歳だった。カリスマ経営者の突然の死で経営は大混乱に陥った。
創業者がモスを創業したのは72年のこと。米国発のハンバーガーを創意工夫して〝日本発祥〟のハンバーガーに進化させた強烈な個性の持ち主だった。人間貢献・社会貢献を経営理念に掲げ、「食を通じて人を幸せにすること」が経営目標だった。
自己資金が少なかったため、FC加盟による展開に重きを置き、FC加盟者が8~9割を占めるモスの独創的な組織を構築したのも創業者の功績だった。創業者のカリスマ性にほれ込んでFC加盟した人も多く、それは「モス教」「櫻田教」と呼ばれたほどだった。
創業者は94年6月にモスバーガーのFC加盟店組織である共栄会の清水孝夫氏を社長に据えていた。ところが創業者が亡くなると、清水氏に対し大株主が注文をつけたこともあり、トップ人事を巡って1年6カ月もの間、混乱が続いた。経営陣、FC、取引先などが創業者に依存し、創業者の命令や指示がないと自発的に動けない組織の弊害が表面化した。
清水氏は98年11月会長に就任、末席の取締役の橋本義雄氏を社長に就ける。これに危機感を持った他の取締役は「創業者のDNAを引き継ぐのは櫻田厚しかいない」と、櫻田氏を社長に推し、50日後に清水、橋本両氏を解任。こうして櫻田氏はモスの社長に就任した。
しかしそれからが大変だった。当時モスは直営・FCで1500店舗を超える規模に成長しており、創業者の薫陶を受けた人がたくさんいた。中には47歳の若さの櫻田氏に反発する人もいた。そこで櫻田氏は番頭たちと徹底的に話し合い、自分の考えや思いを伝えていったが、真意を伝えるのはそう簡単なことではない。相手が「分かった」と言ったとしてもそれが本心かどうかは分からない。その見極めが難しい。それでも粘り強く話していく。こうやって番頭たちを説得したが、それでも伝わらない場合には、会社を去ってもらうしかなかった。櫻田氏にとっては非常に辛い経験だった。結局、モスが秩序を取り戻すまでには3年の時間が必要だった。
「無事是名馬」健康こそリーダーの資質
―― 櫻田さんは混乱の中で社長に就任しましたが、そこから得られた教訓は何ですか。
櫻田 健康で絶対死なないと思っていた創業者が60歳で急逝、経営が混乱したのを経験したこともあり、私は早くから後継社長の育成に努めました。2016年6月に法務畑の中村栄輔常務取締役執行役員に社長を引き継ぐのですが、14年度から会長兼社長の私を補佐させ、社長業を仕込みました。こうして合計18年間社長を務め、64歳でバトンを渡しました。
あれから6年、私は70歳、中村は63歳になります。いいタイミングでバトンタッチができたと思っています。
―― ところで過去のピンチではどのように対応されましたか。
櫻田 大きなピンチは、18年8月に関東・甲信地域にあるモスバーガーの19店舗を利用した28人のお客さまが食中毒「O121」に感染したことです。チェーン本部から納入した食材が原因となった可能性が極めて高いのですが、今になっても特定できません。私は14~16年に日本フードサービス協会会長を務めたことがあり、外部に相談相手を持っています。この時は東大農学部獣医学科卒業で細菌学者の唐木英明先生にどう対応すべきか、何度も相談に伺いました。その時唐木先生は次のように指導されました。
「これは犯人探しをしてもしょうがない問題です。一つだけ言えるのは人間が行動していて、いつも100点満点というのはあり得ない。今回の件は多分99点まではやっていたけれども、どこかで1%抜け落ちていたのではないか。今後100点満点になるまでずっと追求していけば、再発防止に役立ち、万全な体制を組めるのではないか」
私は社長の中村にも唐木先生の言葉を報告、対策会議の方針にしてもらいました。リスク管理とはちょっと違うと思いますが、予期せぬことが次々に起こるのが今の時代だと思います。その場合、何が最善な対策なのか。やはりその分野の最高の権威の指導を仰ぐということは大切なことだと思います。
―― 不透明な時代に求められるリーダーの資質とは何だと思いますか。
櫻田 このような不透明な時代では、ゼロから創業するという覚悟が一番必要ではないでしょうか。飲食業では既存事業に依存して生き延びるのではなく、「第二の創業」時代と心得、新事業や新業態開発に取り組むべきだと思います。
私の今のミッションは、まずは健康であること。健康でないと話もできないし、人に会うこともできません。「無事是名馬」と言いますが健康であることはリーダーの最大の資質ではないでしょうか。病気がちだと洞察力とか決断力とか、観察力とかが鈍り、リーダーの資質に欠けてしまいます。
モスは経営理念に「人間貢献・社会貢献」を掲げ、コミュニケーション力を大切にしてきました。モスがどんなに大きな会社になろうが、モスの理念は変わらないし、モスのリーダーに求められる資質も変わりません。