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スーパードライのリニューアルを成功させたアサヒビール新社長はP&G出身のマーケター 松山一雄 アサヒビール

松山一雄 アサヒビール

ビール業界の絶対王者である「スーパードライ」がフルリニューアルしたのは1年前のこと。主力製品の味を変えるにはリスクも大きいが、スーパードライは無事、その壁を乗り越えて売れ行きは好調だ。これを主導したのが昨年までマーケティング本部長だった松山一雄氏で、この3月、社長に就任した。松山氏の入社はわずか5年前。幾多の企業を渡り歩いた松山氏はいかにしてアサヒビール社長の座をつかんだのか。聞き手=関 慎夫 Photo=横溝 敦(雑誌『経済界』2023年7月号より)

松山一雄・アサヒビール社長のプロフィール

松山一雄 アサヒビール
松山一雄 アサヒビール社長
まつやま・かずお 1960年生まれ。83年青山学院大学を卒業し鹿島入社。サトー(現・サトーHD)を経て、米ノースウェスタン大学ケロッグ校でMBA取得。93年P&Gでマーケティングに従事。2001年サトーHDに復職、11年から18年まで社長。同年アサヒビールに転じ専務マーケティング本部長。3月16日、社長に就任した。

ゼネコン時代に体験したマレーシアでの債権回収

―― 松山さんは前職のサトーで社長を6年半務め、そこからアサヒビールに転じて4年半後に社長に昇格です。ここだけを見るとプロ経営者としての足跡です。

松山 とんでもありません。サトーを離れた時に考えたのはもう一度、消費財のマーケティングの現場に戻りたいということ。そこでヘッドハンターを通じてアサヒビールに巡り合えた。当時すでに58歳です。自分としてはこのまま最後までマーケターとして何かしっかり未来に残せるものをつくり上げたいと思っていました。ですから社長になることはまったく想定していませんでした。

―― 足跡を振り返りたいのですが、新卒で入社したのは大手ゼネコンの鹿島です。

松山 鹿島を選んだのは、海外で働きたかったからです。当時の鹿島は海外要員を求めていました。国内で2年間基礎を学んだあと、マレーシアに赴任。営業・人事・経理・総務・調達の全部をお前に任せると言われて、毎日午前様になるような生活を続けていました。

―― 記憶に残っている仕事は。

松山 不良債権の回収です。赴任したのは1985年ですが、この年のプラザ合意で為替が大きくドル安に振れた。それでマレーシアバブルが弾け、施主さんのキャッシュフローが悪化し、工事が止まり、倒産する会社もありました。その不良債権を回収しなければならない。その一方で鹿島も現地の業者から訴えられていて、その処理を本部役員の指示を受けながら実行していく。そんな仕事を2年ほど続けました。

―― そこからラベルプリンターや貼付機で知られるサトーに転じます。

松山 それまでサトーは国内で機械を製造して輸出していました。しかしプラザ合意でそれが成り立たなくなったため、海外工場の第一号としてマレーシアに工場を建設することになりました。建設したのは鹿島です。そしてその工場を運営するにあたり、英語が話せてマレーシアにしっかり腰を下ろして働く日本人が欲しいという話があり、現地でサトーに転職しました。

―― 鹿島とサトーでは企業規模がまるで違います。

松山 サトーはハンドラベラーで大きくなった会社ですが、そこからバーコードプリンターや電子プリンターへとビジネスモデルを大きく変える最中でした。さらにはバーコードやQRコードなど世界の自動認識市場に出ていこうとしていた。そしてその拠点がマレーシアで、世界に羽ばたくには君の力が必要だとサトーの創業者(佐藤陽氏)から言われて、一度しかない人生、チャンスを逃したくないと考えたことが決め手となりました。

マーケティングを学ぶため30歳を超えて米国へ留学

―― サトーも4年で辞めています。

松山 ゼロから立ち上げた工場での仕事はダイナミックでとても面白かった。そして4年の間にバーコードプリンターを全世界に輸出できるようになり、工場の運営も安定してきた。年齢も30歳を超えていました。そこで思ったのが、アメリカのビジネススクールに留学する最後のチャンスではないかということでした。

 私は大学時代ESSで英語のディベート大会にも出場し何度か優勝し、日本代表としてアメリカを2カ月間、25大学を回りました。その時に知り合ったアメリカの学生は、半分がロースクールに行って弁護士になる、もう半分がビジネススクールでマーケティングかファイナンスをやるというような感じでした。私は文学部でしたから、全く知らない世界にすごくワクワクして、その道へ進みたいと思ったことを覚えています。ただビジネススクールに入るには業務経験を積まなければいけないと周囲に言われ社会人になったのですが、気が付けば8年がたっていました。

 その間、マーケティングを勉強したいという気持ちはますます強くなりました。ケロッグ校はもともとマーケティングが有名な学校で、マーケターを目指す学生もたくさんいる。そこで留学先に選びました。そして学生の間では、「消費財のマーケティングをやるなら、やっぱりP&Gだよね」というのが定説でした。そこで私もP&Gでインターンを経験する中で「卒業したら待ってるよ」と言っていただきました。

―― いよいよ「マーケター・松山一雄」の誕生です。

松山 P&Gには6年間在籍し、3つのブランドを担当しました。その間、阪神淡路大震災があり、当時神戸にいた私は経営トップの方のカバン持ちをして一緒に行動したりしていました。そうした経験から学んだのは、マーケティングは経営だということです。P&Gにとって、マーケティングと経営は不可分でした。

 多くの人はマーケティングと聞くと販促や広告をイメージするかもしれません。でもP&Gでは、人と組織をビルドするというのが経営の根幹にあり、これをリードするのがマーケティングだと位置づけています。つまりマーケティングが経営を支えている。だからこそ、P&Gの歴代社長の9割がマーケターです。

―― その後、またサトーに戻り社長を務めています。

松山 その前に2年間、ノバルティスグループにいました。P&Gはやりがいがありましたが、大半の社員は新卒で入るのに、私は実験的に中途で入ったのでマネージャーの中では最年長、さらに上にいくのは大変です。そこへノバルティスから日本の全事業のマーケティング統括と事業統括をやらないかとスカウトされ転じました。

 さらにはサトーが2000年頃に海外戦略を刷新し、シンガポールに国際ビジネスのヘッドクォーターを置くことになったので、恩返しのつもりで古巣に戻り、その後、社長となりました。こうしてやることはすべてやったので、もう一度自分の夢を追いかけようと、退任しアサヒビールに入りました。

入社時のアサヒビールに欠けていた「ワクワク」

松山一雄 アサヒビール
松山一雄 アサヒビール

―― アサヒビールに入った時の率直な感想はいかがでした。

松山 普通、新しい職場に足を踏み入れるとアウェー感を感じます。でもアサヒビールにはそれがなかった。意外だったのは、スーパードライでビール市場に革命を起こした会社だから、破天荒で新しいことに挑戦する人が多いとイメージしていたのに、優等生が多く、正直、あまりワクワクしなかった。

 だからマーケティング本部長になって最初の朝礼の時に、社員に向かって「もっとワクワクする会社にしよう」と語りかけました。

―― 社員の反応はいかがでしたか。

松山 結構、頷いている人がいて笑顔も見えました。それを見て、みんなも変わりたいんだなと感じました。「松山さんと一緒ならワクワクする会社に変えられるかもしれない」と思ってくれたのかもしれませんね。

―― アサヒビール入社が18年。その前年、スーパードライ販売数が29年ぶりに1億ケース割れ。社員も危機感を持っていたのでしょうね。

松山 スーパードライだけでなく、ビール市場が長期低落傾向にありましたから、閉塞感を打破できないかという気持ちは強かったと思います。私のような業界外の人間を入れたのもそこを期待しているのではないかと感じましたし、塩澤(賢一)社長(当時、現会長)からは「正しいと思うことは全部やってくれ。変化をさせることをためらわないでくれ」と言われました。ホールディングスの小路(明善)社長(現会長)は「くれぐれもこの会社と業界に染まらないでほしい。前例踏襲的なことは決してやってほしくない」と。

―― 何を変えましたか。

松山 最初に変えたのはビール4社の不毛な消耗戦をやめようと。パワーマーケティングでお金をかけて同じようなことをやるのではなく、独自の価値観を目指そう、同質化競争から外れましょうということでした。
次にスーパードライのテコ入れです。お客さまから見るとあまりにありふれたブランドになってしまい、心に響かなくなっていました。そこで、菅田将暉さんと中村倫也さんを起用し「おいしいから飲もう」ではなく、スーパードライの最高の瞬間を描くコマーシャルに変えました。このCMは好感度1位になりましたが、そこにコロナです。外部環境はどんどん悪化していきました。

 でも逆に腹をくくる覚悟ができました。そこで出てきたのがスーパードライのリニューアルです。スーパードライの価値を上げることに取り込むべきだという議論が始まり、最初に発売したのが、フタを開ければ泡の出る「生ジョッキ缶」でした。

 この要素技術は何年も前から社内にあったものです。でも以前はボツになっていた。それを、本部長が代わったからといってもう一回出したところ、私が面白いと飛びついた。

 後で「ビール業界を知っているなら怖くてできなかった」とみんなに言われました。そもそも泡をたててはいけないというのが業界の常識でした。制御できないと泡が噴き出てしまう。それでも思い切ってリスクを取ろうという機運が起きたのはコロナのおかげだと思います。

―― 昨年3月にはスーパードライの味を変えるフルリニューアルにしました。日本一売れているビールの味を変えるのですから大冒険です。

松山 変えたからといっていい方に変わる保証はどこにもありません。よく引き合いに出されたのが1985年のコカ・コーラのリニューアルです。従来のコーラに代えてニュー・コークを発売したものの失敗、わずか3カ月で元に戻しました。これを含めメガブランドをフルリニューアルして成功した事例はほとんどない、と社内外から指摘も受けました。

―― よく決断できましたね。

松山 最終的に一番大きかったのは、塩澤社長が経営会議の席で「腹をくくってやる」と宣言したことです。それに誰もが、このままではスーパードライのブランド価値がズルズルと落ちていくことを分かっていた。でも怖くてできなかった。それがコロナ禍で危機的状況となったことで、リスクを取る勇気が生まれました。

手応えと恐怖が同居したスーパードライの見直し

―― どうやって味の方向性を決めたのですか。

松山 スーパードライの課題を360度、徹底的に精査しました。味、ブランドイメージ、パッケージはどうか。中でも重要だったのは「辛口」というコアの価値です。これが今の消費者にとって意味があるのかないのか。物性的と情緒的の両面から、さらには競争環境の中でどういう状況に置かれているのか。

 その結果分かったことのひとつが辛口への誤解です。辛口とは切れ味がよく何杯も飲めて食事にも合う洗練されたクリアな味という意味ですが、実際には刺激が強い、ピリピリするというイメージを持つ人が多かった。ブランドイメージも、どこでも飲まれているありきたりのビールで特別感がまったくない、おしゃれな感じもしないというものでした。
この課題に対する答えが今回のフルリニューアルです。原材料は同じですが処方と製法を変えたことで、「飲んだ瞬間の飲みごたえ、瞬時に感じるキレのよさ」が生まれました。それを視覚的に訴えるために、パッケージにはそれを示すグラフを入れ、CMでも流しました。

―― 自信はありましたか。

松山 発売前から私の中ではかなりの手応えがありました。事前のテストや評価も好評でした。でも本心はすごく怖くて、うまくいかなかったときのことをイメージしたこともありました。それに初速が良くても、それが続くかどうかは分からない。ですから発売1カ月後に行った消費者の浸透度調査が一番怖かったのですが、お客さまの満足度は90%を超えました。これを見た時、「よしっ」と。発売から1年がたちますが、お客さまの数とブランド価値を元にしたデータは上がり続けています。これは成功と言っていいと思います。

―― もうひとつのビールブランド、マルエフも好調です。その一方で人口減少、若者のアルコール離れなど環境は厳しいままです。社長になった今、どんな会社を目指しますか。

松山 社員にも言っているのは未来のビール会社をつくろうということです。今、社内は明るい。でも未来を見ると人口も減り競争も激化します。下手をするとまた閉塞感に包まれてしまう。そうならないためにも、100年後にも愛されるような未来のビール会社ってどんな会社かなっていうのをみんなで考えて、実現していこうと考えています。

 それは飲酒人口を増やすということではありません。ビールは嗜好品です。健康を維持するものではありません。でも正しく付き合えば心のウェルビーイング、人生に彩りを添えるものです。ですから未来のビール会社は、ビールだけを売る会社ではなくて、人生を彩る新しい価値をつくっていく会社です。

 肝に銘じているのは自分たちの事業の価値を自分たちのやってきたことで定義してはいけないということです。マーケィング学者のセオドア・レビッドの有名な言葉に「マーケティング近視眼」という言葉があります。アメリカの鉄道会社が衰退したのは自分たちは鉄道会社だと定義したため。もしモノや人を移動させるというふうに定義すれば違うやり方があったというのです。

 ですからアサヒビールもビールに限らずお客さまの喜ぶものがあれば、もっとチャレンジしていくべきだと考えています。