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小泉総理も信頼した男がもくろむ政界再編――小野次郎氏(維新の党政調会長)×德川家広氏

小泉「劇場内閣」では首相秘書官という裏方として活躍し、2005年の郵政選挙で国政の表舞台に登場した小野次郎さん。旧内務省、警察出身の政治家は中曽根大勲位、後藤田正晴、亀井静香と、それぞれ一時代を築いて来た。小野さんも、自民党からみんなの党、結いの党・維新の党へと小政党を移動し、今では維新の党の政調会長として野党再編のキーマンである。日本政治に「小野次郎の時代」は来るのか? その可能性を占うべく、お話を聞いた。

警察庁時代の小野次郎氏

警察庁に就職した動機

小野次郎

小野次郎(おの・じろう)1953年山梨県生まれ。東京大学法学部卒業後、76年警察庁入省。79年仏アンジェ大学留学後在仏大使一等書記官を務める。鹿児島県警本部長を経て2001年、小泉純一郎内閣の首相秘書官に就任。05年自民党公認で衆議院議員初当選。10年自民党離党後、みんなの党公認で参議院議員初当選。13年結いの党に参加し初代幹事長に就任。14年結の党と日本維新の合流により生まれた維新の党に参加し総務会長に就任。15年維新の党政調会長に就任。

德川 小野さんが東大在学中に警察庁を志望された動機が、「警察は旧内務省の精神を受け継いでいるから」というものだったと聞いています。

小野 大学4年で公務員試験を受けた時に、別にどこと決めていたわけではなかったんです。自治省はどうかと思って行くと、今も総務省はそうですが、警察庁と同じ建物にありました。先輩たちも両方に行っている。それで資料を見ていると、最初は同じ内務省だったのが戦後になって別れたといったことも分かってきました。20代で地方へ出て、自治省だったら財政課長とか行政課長で、一般行政をやる、と。警察へ行けば捜査二課長とか何かをやって、普通の方が20代では経験しないようなことをすると分かって「いいな」思いました。

それから、土田國保さんという、奥さんを爆弾事件で亡くした後で警視総監に就任した方がおられたんですが、警視総監の時に警察からこの方に「会いに行け」と言われて行きました。そうしたら「他の役所を希望しているかもしれないけれど、僕と一緒にやらないか」と言われて。奥さんを亡くした警視総監というのは悲劇的であるけれど、尊敬できるすごい方だなと思ったんです。それで大蔵省とか通産省を全部消して、警察庁一本で行くと公務員試験の届けを書き直しました。

德川 今では馴染みがない読者の方も多いと思いますので、戦前の内務省について解説をお願い致します。

小野 内務省というのは権力的で中央集権的で上から目線みたいな非常に悪いイメージが伝わっています。ところが、旧内務省は右も左もないんですよ。旧内務省の各省庁出身の政治家の方は、自民党べったりではなくて、いろいろな政党から出ておられる方がいますよね。それはやはり、旧内務省的な感覚の中に「民と行政」というものはあっても、「保守と革新」みたいな感覚がないからだと思います。民衆と直接に接しているから、イデオロギーではなく、市民との関係で自分のなすべきことを決めていくという考え方でした。

私もこの3月に予算委員会で安倍首相に言いましたが、いまだに国も県も市町村もタイムカードを導入していないのが日本の行政なんですよ。それは「24時間働いています」という伝統かもしれないけれど、見方を変えると身分だと思っているということです。普通の企業だと残業の総量を規制するのに、まず誰がどれくらい働いているかを見るものがない。川路さんはそれを140年前に指摘していた。とにかく旧内務省はイデオロギー的でなく、現実に即してやっているから観念論に陥らない。そういうところが好きでした。

政治家や企業が恐れる捜査2課長に

德川 警察庁のキャリアの仕事というのは、どういう具合なのでしょうか。

小野 僕は28歳で茨城県警の捜査2課長になりました。関係しない人はご存じないかもしれないけれど、どこの県警にも2課はあります。これにビビるのは政治家、公務員、それから企業ですね。なぜかというと、企業犯罪と汚職と選挙違反を手掛けているから。それ以外は捜査1課なんですね。だから、公務員の人にしても、政治家のバッジをつけている僕らにしても、「2課が来た」というと「嫌だな」と思うんです。選挙違反のことか、贈収賄のことかと。そういうことの責任者を28歳でやったわけです。

僕が最初に手掛けた事件は、宗教施設を建てるために財団法人をつくるということで、何百人もの人から合計20億円余りを集めて、5〜6年かかって結局何もできなかったという事案です。しかし、これは何の罪なんだ、というと、非常に難しい。最初からでっち上げだったら詐欺罪ですが、最初はできると思っていたけれど、できないことが分かった後も寄付でお金を集めていた分は詐欺になるわけです。

ところが悩ましいのは、例えば寄付した人が、他の人にも嘘を交えて寄付をさせるといったケースが出て来ると、寄付をした限りでは最初の人は被害者だけれども、次の人に対しては加害者という消費者犯罪、マルチ商法みたいになってくる。こうなると、事件にすればよいというわけではなく、どこまでが加害者でどこからが被害者かといったことを、当時28歳の僕が社会常識に照らして判断していかなくてはならなかった。結構有名な方も含めてたくさんの方が絡みましたが、事件解決というよりは行政的な判断が求められた事例でした。

今、政治家になって10年たちますが、やはり役立っているのは、どこまでは救えるか、どこからが悪者なのかという判断力や、あるいは危機管理で予期していないような想定外のことが起きた時の対処の経験です。その意味では、警察庁の30年近くは財産だと思います。

鹿児島県警本部長は憧れのポストだった

德川 鹿児島県警本部長になりましたが、その時のご経験を。

小野 県警本部長になったのは45歳の時でした。自動車は知事さんと同じでトヨタのセンチュリーでしたが、驚いたのは道路で車を止めて、とことこ歩いて歩道を渡ろうと思ったら、鹿児島市民の方が立ち止まってお辞儀をするんですよ。これは東京勤務の時にはあり得なかったことで、「知られちゃっているんだ」と緊張しましたね。

徳川氏德川 鹿児島は川路利良さんの故郷ですよね。

小野 はい。警察に勤めている人間にとっては、鹿児島県警本部長は憧れのポストのひとつなんです。今、警視庁には4万数千人の警察官がいますが、明治の最初には3千人で、そのうち1千人は鹿児島から、明治政府にポストをもらえなかった若者を連れてきました。後の2千人は会津とか水戸だとか旧幕府方が多かったようです。だから今でも警視庁には2千人くらい鹿児島県人がいるんじゃないでしょうか。相当の割合が鹿児島県人ですから、鹿児島県警本部長になったと言うと「おーっ、お前、良い所へ行くじゃないか」と言われるんです。

小野次郎氏のフランス留学経験

德川 警察庁からフランスへ留学されたころのお話をお願いします。

小野 僕は人事院の「長期在外研究員」という制度でフランスに行って、ロワール地方のアンジェーにある大学で修士号を取って来ました。修士論文は「フランスにおけるタクシー営業許可制度」という題です。ですから、その後フランスに出張してタクシーの運転手さんに「あなたたちのプロフェッションで私はマスターを取ったんだよ」と言うと、びっくりされますね(笑)、何を書いたんだと。

それから日本に帰って来て、警察庁と外務省の間の交換人事で、外務省に身分を切り替えて一等書記官として「また行ってください」ということになりました。これが32歳の時です。大使館勤務では内政班長といって、フランスの国内政治のキャップで部下が2、3人いました。自分の仕事はコアビタシオン(共生)という、社会党のミッテラン大統領のもとで右派のシラクが首相になった時の大統領選挙の予想を立てるなど、フランスの政局について分析することが主でした。

德川 フランスの警察と日本の警察の比較みたいなことは考えられましたか。

小野次郎

小野次郎(おの・じろう)1953年山梨県生まれ。東京大学法学部卒業後、76年警察庁入省。79年仏アンジェ大学留学後在仏大使一等書記官を務める。鹿児島県警本部長を経て2001年、小泉純一郎内閣の首相秘書官に就任。05年自民党公認で衆議院議員初当選。10年自民党離党後、みんなの党公認で参議院議員初当選。13年結いの党に参加し初代幹事長に就任。14年結の党と日本維新の合流により生まれた維新の党に参加し総務会長に就任。15年維新の党政調会長に就任。

小野 日本の警察は、実は明治の初めにイギリス型にしようか、フランス型にしようかと迷った形跡があるんですね。神戸や横浜にあった警察は「植民地警察」と呼ばれて英米型を真似したもので、これを日本中に広げようとしていた。ところが、そこへ西郷従道さんがヨーロッパから帰って来て、お兄さんの西郷隆盛さんに「兄貴、海外にはアーミー(軍隊)以外にポリスという侍が務める組織があるらしい」と報告しました。西郷さんが「ポリスとは何だ」と訊いたら「分からないが人を捕縛するらしい。これからはアーミーだけでなくポリスも必要だろう」ということを話して、その後の1872年に川路さんがフランスへ派遣されます。

ちょうどナポレオン3世の第2帝政から第3共和制に切り替わった直後で、川路さんは帝政と共和制の両方を学んで帰ったわけです。英米では、警察本部は裁判所とか検察庁と隣り合っている。日本の警察はフランス式で、日本中どこへ行っても県庁の隣りにある。これがまさに内務省の発想なんです。つまり、司法警察が英米式で、日本もそうである行政警察がフランス式ということです。

德川 フランスに続いて鹿児島と、日本警察の源流に行かれているわけですね。

小野 そういう意味で、警察の中でも「なぜわれわれの制度はこうなっているのか」を語りやすいわけです。

小泉首相の秘書官時代の小野次郎氏

德川 それから小泉首相の秘書官に就任されました。任期は4年半でしたか。

小野 戦後、期間が長い内閣は4つあります。吉田内閣、佐藤内閣、中曽根内閣、そして小泉内閣です。小泉さんの前は、吉田さんが外務省、佐藤さんが運輸省、中曽根さんは内務省と、皆さん役人出身です。それが理由かどうかは分かりませんが、皆さん1年か2年で秘書官を変えていく。でも小泉さんは「大臣も秘書官も一緒にやってくれる人はずっとやってくれ」という考えでした。私が4年半と短いのは、衆議院議員になっちゃったから。ならなかった残り3人は、5年半まるまるやっています。危機管理というのはドキドキ、ハラハラする仕事です。なってすぐに9・11があり、アフガンの戦争、イラクの戦争。その間にも拉致の問題の進展があったり、奄美の不審船事件とか、いろいろ起きましたね。

德川 小泉首相は、どういう方でしたか。

小野 何度も敬服しましたね。最初に「素晴らしいな」と思ったのは、就任早々、金正日の長男の金正男が東京ディズニーランドに来て、入管局長から連絡が入った時のことです。首相は「法に従って適切に処理しなさい。ただし、外交上の問題があるから外務省に、それから治安上の問題があるから警察庁にも相談しなさい。相談して判断に迷ったら、再び上げてきなさい。局長は局長として権限と責任を持っているんだから、法に従って処理するべきです」と言いました。私は「この人は警視総監でも警察庁長官でもできるな」と思いましたね。危機管理の能力には天性のものがあると思います。

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德川家広氏(政治評論家)

德川 小泉さんは当時のマスコミには「変人総理」とかさんざん書き立てられていました。

小野 ですから「変人と言われていますけど」と言ったところ、「小野さんね、永田町で変人と呼ばれているのは人並みの感情を持った人間なんだ。永田町で普通の人というのは、一般社会では変人なんだよ」と言っていましたね。負け惜しみだったかもしれないけれど(笑)。

それから、小泉さんを夜中に起こすべきか迷うことがしばしばあったわけですよ。そうしたら「夜中に起こしてもらっても良いけれど、一国の総理を起こすべき内容かどうかは小野さんが判断しろ。翌日になって『総理への報告は何時だったんだ』と問いつめられたときは、小野さんが報告を受けた時間をもって、この小泉が報告を受けた時間ということにするから気にするな」と言ってくれました。秘書官の怠慢のせいにするような総理だったら、秘書官の責任にされるのを恐れて、総理を起こしますよね(笑)。

みんなの党から維新の党へ移った小野次郎氏

德川 選挙に出ることになったのは、小泉さんに言われてですか。

小野 それが違うんです。山梨県から造反した方々しかいなくて困ったなと言われていたので、誰か候補者がいないかと思って2、3人当たってみたけれど断られてしまいました。私はもうほかに候補者もいないという最終段階で、父方の出身が山梨でしたという話をしたら、何となく「じゃあ、やるか」という話になりました。小泉総理にその話をしたら、小泉さんは「やめておきなさい。私たちは政治家だから選挙に勝った負けたで政権についたり離れたりするけれど、あなたはキャリア・パスがまだ続いているんだから、僕らにそこまで付き合う必要もない。負けたら秘書官に戻れないよ」と。

それで「私は4年半の間に2千本総理答弁を書いている。『改革を止めるな』というのは、そのとおりだと思って作ってきたんです。それが身内の自民党の造反で挫折するのを見過ごすわけにはいきません。私にも改革のお手伝いをさせてください」と言ったら、「そこまで覚悟をお持ちなら、力を貸してくれ」とおっしゃいました。

德川 その後、みんなの党から維新の党へと移られました。その維新の党は大混乱の最中にありますが。

小野 翻弄されているという感じはしますよ(笑)。自民党に寄っていったほうが陳情もつなげば実現してもらうし法律も通るし、安保法制なんか参議院の3つの会派が最後に賛成に回ったじゃないですか。あれなんかは、自分たちの修正意見を少しでも取り入れてもらおうと思って寄っていくと賛成させられちゃうんですよね、結局。

反対に「対案より廃案を」と言ってデモ隊が首相官邸を取り囲んでいましたが、僕は絶対反対の姿勢は正しくないと思う。野党色を強めていくとどうしても「政府に譲歩を求めるなんてまだるっこしいことを言わずに反対に回ればよい」と言われることになります。反対に回ると分かりやすいかもしれないけど、結局は強行採決で原案が通っちゃったわけです。ですから日本の政治の中で必要なのは、辛くても簡単に与党にも寄らず、簡単に反対にも回らず、対案を出すという政党で、それができるのは維新の党だと思っています。

文=德川家広 写真=幸田 森

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