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立川談志最後の弟子が学んだ「多面的な見方と真っすぐな目」――立川談吉

企業経営者の趣味と言えば、「読書」「ゴルフ」などが定番だが、意外に多いのが「落語」である。CDで聴いたり、足繫く寄席に通ったり、中には自ら落語会を開いて高座に上がる社長さんもいる。落語の何が経営者を惹きつけるのか、落語と経営の共通項とは何か、はたまた、落語の技術はマネージメントに活かせるのか。本シリーズでは、複数の噺家や経営者の取材を通じて、落語と経営の関係について考察していく。文・聞き手=吉田浩 写真=森モーリー鷹博  

 談志の自宅にいきなりアポなし訪問

立川談吉

立川談吉(たてかわ・だんきち)1981年生まれ、北海道帯広市出身。2008年3月立川談志に入門。11年二つ目昇進、12年立川左談次門下へ入る。13年からはサンライズホール(池袋)での独演会「談吉百席」を、14年からは故郷での独演会「立川談吉ふるさと落語会」16年から新潟各地での独演会「定点観測」を開始。ラジオの情報FM-JAGAで毎月最終日曜日「立川談吉のJAGARAKU」、音楽ライブでのMC、作詞、朗読活動など多方面で活動。

「俺は談志の最後の弟子だー!」

2011年、師匠の立川談志が亡くなった後に開かれた二つ目昇進の披露会で、渾身の絶叫を行った立川談吉。談志の最期を看取った唯一の弟子である。

立川談志という稀代の落語家は後進をどのように指導してきたのか。それを知りたく、取材を申し込むと快く引き受けてくれた。親子ほど年の離れた師匠を、現代っ子の談吉がどう感じていたのかも興味深いところだった。

取材に応じる態度は、高座でのハイトーンボイスとは違って思慮深く冷静。大学の研究室にでもいそうな雰囲気だ。だが、入門の経緯は一風変わっている。

「最初は自分で調べて師匠の家まで行ったんですよ。師匠は年に一度、貰い物の中から使わない品を並べて、自宅マンションでガレージセールをするんです。そのときの写真や、マンションの1階にたい焼き屋さんがあることなどがインターネットに出ていました。あとは最寄りが根津駅と分かっていたので、場所は突き止められました」

落語家の弟子入りは、以前から熱烈なファンで、寄席に何度も通って楽屋を訪ねて行ったり待ち伏せしたりといったパターンが多い。だが、談吉はそれまで談志の独演会に行ったことは一度もなし。談志の落語はCDで聴いたのみだという。それなのに、いきなり自宅を突き止めて訪問というのも少々ぶっ飛んでいる。

「ネットにアップされていた『立川談志の世相講談』というのを見て、その内容や師匠の感じが何か自分と合ってるぞ、とは思いました」というのが入門の動機というから何ともユルい。

ただ、気持ちは真剣だった。マンションのエレベーターホールに待ち伏せし、談志が降りて来るやいなや両手をついて「落語がやりたいんです!」と弟子入り志願。談志は「まぁ、中に入りな」と、談吉を部屋に招き入れた。

談吉が自己紹介などを一通り終えると、談志は「俺は今、死について考えている」と、唐突な一言。「このオジサン、急にどうしたんだろう?」と戸惑っていると「オマエみたいなのはよく来るよ。でもタイミングがいい」と言われ、入門を認められた。

当時、談志はもう弟子を取らないと言われていた。談吉の入門エピソードを聞いて、病気を自覚した談志が最後に若者に希望を託したのか、と感動的な話を期待したが、どうやらそうではないらしい。

「その時はまったくの健康で、“死ぬ死ぬ詐欺”と周りからは言われてましたね。晩年の師匠は2年単位で生きると公言していて『2年生きたらまた考える』と。でも、これって結構深いようで傲慢なんですよ。だって、2年くらいは絶対に生きるから。師匠自身も身の回りの世話をする人間が必要だし、その前年に最高の『芝浜』を演ったと言われていたから、まだイケるんじゃねぇかと思い直したのかもしれません。そんな時に自分が来たから、最高のタイミングだったんじゃないでしょうか」

談志はなぜ怖がられたのか

立川談吉

普段の談志は、どんな人物だったのだろうか。

「前座が1人しかいなくて暇だったんでしょうね。駅のホームで線路を挟んだ向こう側に病院の看板に猫が描いてあって『あれを見て何が分かるか?』と聞かれるわけです。そしたら『病院の名前、電話番号、猫の種類、猫をどこで調達したのか、猫の調達にもどこかの会社が関わってる、写真を撮ったやつもいるなあ、とか、1つのモノからいろんな見方ができる』と言ってましたね」

立川談志のモノの見方のユニークさについては、多くの人々が語るところだ。ただ、談吉はそれが変わった見方なのか、素直な見方なのかは分からない、とも言う。

世間的に「怖い人」のイメージが強い談志だが、傍にいた談吉の話によれば、常に戦々恐々としていたようでもない。それについて談吉は、こんな解説を加えてくれた。

「腹に何かある人にとっては、師匠のように真っすぐ物を見る人は怖いんじゃないですかね。自分は見られても、何もないから怖くなかった。弟子が酒飲んで一日潰して稽古ができなかったみたいなときに、見透かされてるようで怖かったんじゃないかなと。自分はそこに罪悪感がなかったので、怖くなかったです」

本シリーズの第1回目と2回目に登場した、立川談慶が言うところの「受け止め力」にも通じるものがある。

談志のまっすぐな目は、「媚びない」という部分にも繋がっている。たとえ客でも、弟子だと舐めて無礼な振る舞いをするような人物には怒りを露にしたという。

「人と人とを対等に見ていたから、みんなあの目が怖かったのでは」

と、談吉は語る。

 真面目に変人にあこがれた男

立川談志が30歳のころに著した『現代落語論』(三一書房)という本がある。若き日の自身のエピソードを交えて落語を多面的に分析し、多くの噺家に影響を与えたとされる名著だ。

「あんな本は、マトモな人でないと書けないですよ」

談吉がそう語るように、談志の本質は真面目だ。

「ひねくれてはいるけど、どちらかと言えば変人にあこがれて、変人に関する勉強を積み重ねた結果変人になった人。まあ、真面目に変人にあこがれること自体が変人とも言えますが、嘘はつかない人ですから」

談志ほど自分のイメージづくりに成功した人はいない、とも談吉は言う。酒を飲みながら煙草をふかす無頼漢のイメージが強いが、煙草を始めたのは40歳を超えてからで、結局最後はやめている。酒にも弱く、弟子たちが気を遣って薄めのハイボールを作っていたという。

セルフプロデュースの能力は、人気商売であり個人事業主でもある落語家にとって重要だ。ただ、談吉曰く、「自分は人づきあいや営業が一番苦手。そんな自分が落語家として食えているのが不思議。基本的に損得勘定がなくて、一番の欲と言えば自分が楽しみたいということですかね」と言う。

自分を売り込むために、筆マメで電話魔だった師匠とは対照的で、弟子はどこまでも素。「ただ、『とにかく可愛がられろ』とは言われていました。当たり前ですけどお世話になった人にはお礼の電話をするとか、またお会いしたときはもう一度お礼を言うとか、そういうところがしっかりしていれば、呼んでもらえるのかなと」

一見変人に見えてマトモな師匠と、マトモに見えて変人の弟子。対極のような両者が上手くいったのは、弟子入り前に談吉が感じていたように「何となくこの人とは合う」という感覚が案外重要だったのかもしれない。

談吉が談志に仕えたのは3年ほどに過ぎない。だが、冒頭紹介した談吉の絶叫が、2人の関係性の深さを物語っている。(敬称略)

落語に描かれた人間同士の交流は経営に通じる  

良い企業と落語の共通点は「人間の弱さに対する優しい目線」立川談慶②

談志を怒らせた慶応卒サラリーマン出身落語家の「2つのしくじり」立川談慶①

立川談吉落語会『第十九回 談吉百席』

談吉告知写真

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