企業経営者の趣味と言えば、「読書」「ゴルフ」などが定番だが、意外に多いのが「落語」である。CDで聴いたり、足繫く寄席に通ったり、中には自ら落語会を開いて高座に上がる社長さんもいる。落語の何が経営者を惹きつけるのか、落語と経営の共通項とは何か、はたまた、落語の技術はマネージメントに活かせるのか。本シリーズでは、複数の噺家や経営者の取材を通じて、落語と経営の関係について考察していく。文・聞き手=吉田浩 写真=森モーリー鷹博
慶応義塾大学経済学部卒、元ワコール社員という落語家としては変わった経歴の持ち主である立川談慶師匠。本業の傍ら、ビジネスパーソン向けの書籍を執筆したり、コミュニケーション講座で講師を務めたりと、精力的に活動している。
そんな「知性派」の談慶師匠だが、故・立川談志師匠の下での修業時代にはしくじりの連続。通常は5年程度で終える前座暮らしが9年半にも及んだ。昇進に厳しいと言われる立川流でも異例の遅さだ。
実際に取材で会うと、頭の回転の速さはすぐに分かった。さぞかし「デキる」ビジネスパーソンだったのだろう。なのに、なぜ落語家に?なぜ10年近くも前座? そんな疑問をぶつける前に、まずは談慶師匠の歩みから尋ねてみた。
落語より先に立川談志に興味を持った
―― 最初に落語に興味を持ったのはいつ頃ですか?
談慶 大学に入った当時、楽しそうなサークルがオチ研ぐらいしかなかったんですよね。ただ、落語のことはあまり知らなかったんですが、談志のことは知っていました。中学生のころテレビ番組を見ていて、その中で、談志は「新聞で正しいのは日付だけ」と言ったんです。これは凄いなと。勉強のために新聞で知識を得ることが当たり前のように思われていた時代に、そんなことを言って笑いに変えてしまうのが驚きでした。まだ駆け出しだったツービートのビートたけしさんを、最初に評価したのも談志でした。
オチ研に入ってからも、最初は落語は古臭いものくらいの印象しかなかったんですが、あるとき談志演じる古典落語の「らくだ」のテープを友人から借りて、聞いたとたんにときめいてしまったんです。これほど人間の裏側を描ける一人芝居のジャンルがあるのかと。談志と落語の凄さを思い知りました。
―― 卒業してすぐに落語家になろうとは思わなかったのですか?
談慶 卒業したのが昭和63年で、バブルの真っただ中。就職先として落語家の選択肢はなかったですね。もともとマスコミ志望でテレビ局に就職したかったんですが、全部落ちました。まあ、ワコールなら女性社員も多いし、新規事業もいろいろやってるから新しいことに挑戦できるかな、と。そこで3年務めて考えが変わらなかったら、落語家になろうと思っていました。
営業マンのように談志にアプローチ
―― どんなサラリーマンだったのですか?
談慶 社会全体がバブルだったので、ワコールも個性豊かな人材を多く採用して、新しいことに挑戦しようという気風がありました。自分もそんな変わり者の1人としてカウントされてたみたいですね。
入社して半年間の研修中には、サラリーマン社会の不合理さを痛感しました。セールスマンの補助をやったんですが、横浜から東京まで値札を20万枚持ってこいとか、当時はパワハラという言葉はなかったですが、今なら即アウトみたいなしごかれ方で、仕事に全く興味が持てなかった。これなら落語家になろうと。
そんな自分を持て余したのか、研修後に九州支社に飛ばされました。でもそこで、仕事の面白さに目覚めちゃったんです。東京では百貨店研修でしたが、九州では専門店のおじちゃんやおばちゃん相手に、商売の生々しさに触れることができました。全社挙げての専門店の業態開発プロジェクトのメンバーにも、新人としては初めて選ばれました。デパート相手と違って、自分が担当する専門店がコケると死活問題になる。これは面白えなと。
それでやっていくうちに軌道に乗って、新人では一番大きな数億円の予算を任されるようになりました。福岡と佐賀に30件くらいのお得意先を持ってたんですが、店主の皆さんは在庫管理の発想すらなかった。それでこちらからいろいろ提案して、リスクを減らして儲かるように。まあ、アドバイザーみたいな立場ですね。その時代に知り合って、今でも付き合いのある経営者もいます。経営の「てにをは」を学んだって感じですかね。
―― 仕事が面白くなってきたわけですね。
談慶 それだけ仕事が面白くなっても、落語家になりたかった。最初は立川流のCコース(注1)に入って、東京の研修中から談志に手紙を送ったりしてました。談志が九州に来たときには楽屋に会いに行ったりして、「ああ、俺はやっぱり落語家になりたいんだな」と。
談志のマネージャーから「楽屋に来なさいよ、談志に会わせてあげから」と誘われて、怖い人のイメージしかなかったんですが、実際に会うとすごくいい人。九州に行ってからも、みりん干しや明太子を買って談志に送ると直筆のお令状が届いたりして、「なんだ。メチャクチャいい人じゃないか」と。まあ、完全に騙されたんですけどね。まだ自分がお客さんだったから優しかったわけで、弟子になるとがらりと変わりました。
―― アプローチの仕方が営業マンぽいですよね。
談慶 ワコールにいたからかもしれないですね。営業マン時代、たとえば得意先に実家のお土産として、新聞でくるんだ野沢菜漬けを持っていくだけで喜んでくれるわけですよ。人というのは気持ちだなと。それと、談志は人一倍贈り物に弱いんですよ。
談志が振るった大ナタ
―― それだけ人の気持ちを察知して動ける談慶師匠ですが、談志師匠に弟子入りしてから二つ目昇進(注2)までに長い時間がかかりました。
談慶 まず、談志への憧れが強すぎて、何か命じられるとパニクッて余計に談志をイラつかせたりしたんですね。先走ったことをやっちゃったり、普通の応対ができなくなってしまいました。そんな戸惑いがあって、「何やってもダメな奴だ」みたいに思われてました。
ただ、4~5年経つと慣れてきて、だんだん談志の呼吸が分かってくるんです。すると談志を不快にさせないように、最低限のことしかやらなくなる。談志の身の回りの世話をして、機嫌さえ良ければいい、と満足するようになってきたんです。
ところが、それはあくまで基本で、そこからプラスして積み上げた部分を俺に見せろ、という談志の考えを理解していなかったんです。時々、談志はボソッと「あの歌やってるか?」「あの踊りやってるか?」みたいにチェックを入れてくるのですが、大事なのはそういうところ。それを弟弟子の談笑はすぐに気付いた。自分としては、「談志は昔、自分より後輩の古今亭志ん朝師匠が先に真打ちになって悔しい思いをした経験があるから、弟弟子を先に昇進させるようなことはしない」と勝手に決めていたんです。でも、談志は前座が何人もいるのに談笑を先に二つ目に昇進させた。大ナタですよね。そのとき初めて気付きました。
つまり、二重の意味で自分はしくじってるわけですよ。最初は談志への憧れが強すぎたこと。次に談志を不快にさせなければ前座は合格だと思っていたらそうではなかったこと。それが、長いこと前座をやることになった理由です。
―― 談志師匠が顧客だとしたら、営業としては大失敗ですね。
談慶 大失敗です。ただ、言い訳をするなら、そうした経験が地下資源のように溜まったお陰で、後からくる人間にアドバイスすることができるようになりました。著書の『落語力』(KKロングセラーズ)にせよ、『「めんどうくさい人」の接し方、かわし方』(PHP文庫)にせよ、サラリーマンに向けてのメッセージが満載です。
(注1)落語立川流の組織体系には、プロの噺家を目指し、常時寄席や舞台に出るAコース、有名人でそこそこ落語ができるBコース、無名だが落語に関わりたい人なら入れるCコースがある。
(注2)東京の落語家の昇進制度は、前座見習い、前座、二つ目、真打ちとステップアップする形式で、二つ目になると雑用や師匠の身の回りの世話から解放され、活動の自由度が大きく上がる。
立川談志最後の弟子が学んだ「多面的な見方と真っすぐな目」立川談吉
良い企業と落語の共通点は「人間の弱さに対する優しい目線」立川談慶②
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