2021年5月に歌舞伎座社長に就任した安孫子正氏は、中学生の時に歌舞伎と出会ってから歌舞伎にのめり込み、松竹入社後も歌舞伎一筋の人生を歩んできた。そして歌舞伎製作の現場では、自分たちが満足できる作品づくりを手を抜かずにやり続けなければならないことを故・永山武臣会長から教わったという。聞き手=唐島明子 Photo=山内信也(『経済界』2021年11月号より加筆・転載)
安孫子 正・歌舞伎座社長プロフィール
中学生から歌舞伎に夢中
―― 安孫子社長は学生の頃から歌舞伎に夢中だったそうですね。
安孫子 中学校で入部した演劇部の顧問の先生が歌舞伎の研究をされている方で、歌舞伎についていろいろ教えてくれました。また祖母が歌舞伎が好きだったこともあり、もともと私の中で歌舞伎の土壌がありました。中学生だった1963年2月、新聞の夕刊を広げたら、普段は読まない劇評に「歌舞伎座の2月公演が面白い」と書いてあったんです。何か心惹かれるものがあり、思い立って一人で観に行ったところ、「なんだこれは!」と衝撃を受けました。
舞台や衣装の色彩の豊かさに目を奪われ、荒々しく豪快な荒事があれば厳粛な重々しいシーンもある。俳優のセリフは荘厳に発せられるもののほかにも七五調で朗々と歌い上げるものもある。しかも三味線、鼓、太鼓などの和楽器で奏でられる音楽が、踊りや演技と一体となっている。本当に一気に心をわしづかみにされました。
―― 松竹でのお仕事はその延長線上にあるのでしょうか。
安孫子 高校時代から歌舞伎に関わる仕事をしようと、歌舞伎や演劇の勉強をしていました。ただ、当時は歌舞伎の研究と評論をやろうと考えていて、自分が現場に入って製作することは考えていませんでした。しかしその頃、「歌舞伎がそんなに好きなら松竹を紹介しよう」という人がいて、しかも2カ所から話が来たんです。それでこれもご縁かなと思い、松竹に入ることになりました。
初めは74年2月中旬からアルバイトとして働き始め、その1年3カ月後に社員になりました。当時の松竹は新入社員の一斉採用をしていませんでしたので、不定期での採用です。入社以来、演劇部に在籍して営業や総務のような業務なども経験し、実際に歌舞伎座の仕事に関われるようになったのはちょうど30歳の78年5月でした。そして83年には演劇製作室で歌舞伎座担当のプロデューサーになり、演劇製作室長を経て、99年に演劇製作担当の取締役として演劇の興行すべてに関わるようになり、今年5月までは松竹の副社長で演劇本部長も兼務していました。
歌舞伎座に来て見えた松竹と歌舞伎座の原点
―― 中学校時代の歌舞伎との出会いが松竹での演劇本部長や副社長、そして今の歌舞伎座の社長までつながったんですね。
安孫子 これまで松竹では歌舞伎の製作・興行に携わっていましたが、これからは歌舞伎座という劇場の持ち主の立場です。歌舞伎座の大家さんですね。年間を通して、歌舞伎の製作・興行をするために松竹が私たちの劇場を借りてくれています。それをきちんとサポートしていきたいです。
―― 松竹から歌舞伎座へ移り、歌舞伎への関わり方が変わることで、何か新しく見えてきたことはありますか。
安孫子 歌舞伎座に来てからいろんなことを考えさせられています。松竹の創業者である白井松次郎と大谷竹次郎、双生児の兄弟は、彼らの父の家業を引き継ぎました。その家業は、京都新京極にある芝居小屋・阪井座(現在の京都松竹阪井座ビル)の売店経営です。阪井座の売店の権利を持っていて、そこで仕事を始めたのが松竹の始まりで、そこから歌舞伎の製作・興行につながります。
改めてこの経緯を振り返り、私たちの創業の元は、劇場に来ていただいた方々に歌舞伎見物の面白さの一部である売店での仕事だったんだ、そこに松竹と歌舞伎座の原点があるんだと私自身、再認識しました。歌舞伎を観るために歌舞伎座に足を運んでいただいた方々が、充実した舞台を観て、売店で土産の買い物などをして、食事処で食事したり、弁当を食べながら楽しんでいただく。社員にも創業の原点を伝えて、これからみんなで頑張っていきたいです。
歌舞伎サミットと名人会を歌舞伎座で開催するのが夢
―― 今後、何か手掛けたいことはありますか。
安孫子 私の夢のひとつは、歌舞伎座で、すべての歌舞伎に携わっている人を集めて「歌舞伎サミット」のようなものを開催することです。現在は歌舞伎興行というと松竹だけになってしまいましたが、昔は色んな方々が関わっていましたし、今も地方へ行けば地歌舞伎があり、芝居小屋もある。全国の地歌舞伎の関係者が集まる「地芝居サミット」も開かれていました。
四国・香川の琴平町には1835年(天保6年)に建てられた現存する日本最古の芝居小屋・旧金毘羅大芝居「金丸座」があり、1985年からは松竹が協力し、毎年4月に「四国こんぴら歌舞伎大芝居」を開催しています。そこでの活動を通じて地歌舞伎の皆さまとの連携を持つようになりました。こんぴら歌舞伎大芝居は全国から歌舞伎ファンが集まるイベントですが、皆さんが地元愛、歌舞伎愛で一生懸命応援してくれています。そういうすべての歌舞伎に関わる人を集めてサミットを開き、みんなで一緒になって歌舞伎を啓蒙・発信していくような場として歌舞伎座が貢献させていただければと思っています。
―― 歌舞伎座が松竹の歌舞伎以外にも開いていくイメージですね。
安孫子 歌舞伎サミットのほかに、もうひとつ夢があります。これまで歌舞伎座でやってこなかった新しいこと、しかも日本の芸能の底上げになるような、元気が出てくるような、活性化につながるようなことをやりたいと考えています。
歌舞伎座の歴史をひも解くと、オペラや能の公演、落語会などが開かれていました。また私が松竹の演劇部で営業をしていた頃の歌舞伎座はテレビ室で映画を製作するなど、いろいろな事業を行っていたんです。さらに宣伝を担当していた当時は正月興行の千秋楽が26日に終わると、27、28日は浪曲や民謡の第一人者が全員集まって行われる浪曲大会、民謡大会が開催されたり、いろいろな催しが行われていました。
ただ私が知る限り、歌舞伎座で「名人会」をやったことがありません。そこで歌舞伎だけではなく、他の芸能の人たちとも一緒に、名人会のようなものをやりたいです。
―― 名人会とはどのようなものを想像すればいいですか。
安孫子 全国から一流芸人が集まって、ファンの皆さんに芸を披露する会です。昔は各劇場で名人会が開かれていました。しかし今は、東西の一流芸人が一堂に会して日本芸能ファンの方たちにそれぞれの芸を披露する、そういう機会があるようでありません。歌舞伎だけではなく落語、能、狂言、舞踊、歌劇、講談、浪曲、民謡など、その道の、「これぞまさしく!」というようなものを皆さんに観ていただきたい。そしてそれを歌舞伎座の年中行事にできたらいいなと考えています。
歌舞伎には400年以上の歴史があり、日本の芸能の中心にあるのが歌舞伎だと自負しています。世の中に新しい芝居が生まれてくる中で、歌舞伎も時代に合わせて新しく進化しています。また歌舞伎座にはブランド力があり、存在感はとても大きい。国内だけでなく海外の方にも知られている。明治の文明開化の中で築かれ、日本でも一番大きくて由緒ある劇場として130年間、今日まで来ました。だからこそ歌舞伎座は歌舞伎だけではなく、日本の演劇・芸能の大きな幹として世間に貢献しなければならないと考えています。
食事も楽しめる劇場文化は若者にも喜ばれている
―― 少年時代における歌舞伎との出会いが発端となり、安孫子社長は歌舞伎座の社長にたどり着きました。そしてその道のりでは、松竹で歌舞伎の営業、宣伝、製作などに携わってきていますが、これまでの仕事で影響を受けた本、舞台、人物などはありますか。
安孫子 舞台の製作・興行について、故・永山武臣会長から教えていただいたことは記憶に残っています。「お客さまが何を求めているかを考えながら、自分たちも手を抜かずに満足できる作品づくりができているか。それを常に続けなければならないんだ」と演劇部の会議で永山会長は言い続けていました。
これは企業経営でも同じだと思います。お客さまのニーズに対応し、お客さまに喜んでいただくことが第一にあり、そこに自分たちも全力を投入できているか。自分たちができる最高のものを提供し続けないと後が続かないし、そうするからこそ信頼関係が生まれる。その積み重ねが大切なのだと思います。
歌舞伎座は1カ月に10万人のお客さまにお越しいただかなければなりません。これは演劇の世界ではケタ外れの数字です。10万人となると歌舞伎の熱烈なファンはもちろん、歌舞伎が初めての方にも楽しんでいただける舞台をつくる必要があります。
―― ファンと初心者の両方が楽しめる舞台づくり、劇場づくりですね。
安孫子 今はコロナ禍のため収容率50%で運営していて厳しい状況ですが、コロナが落ち着けば、多くの方にお越しいただき、食事処も含めた劇場文化を歌舞伎座で堪能していただきたいです。
新橋演舞場では2010年から「滝沢歌舞伎」を行っています。ジャニーズファンの若者にとって劇場で食事をすることは一般的ではありませんでしたが、滝沢歌舞伎を通じて観劇と食事を楽しむ昔からの劇場文化が新たに定着しているようで、ファンの皆さんが食事の写真などをSNSにたくさん投稿してくれています。
これまで歌舞伎、歌舞伎座での伝統的な劇場文化を経験したことがない人にも、喜んでいただける可能性は大きいです。時代は変わっても、変わらない魅力はあります。歌舞伎座はそういう楽しみ方ができる数少ない劇場の一つですので、早くコロナが収束し、皆さんに来ていただける日が待ち遠しいです。