2023年11月3日、Jリーグ初代チェアマンの川淵三郎氏に文化勲章が授与された。川淵氏は日本サッカープロ化の立役者。そのおかげで日本代表チームはワールドカップの常連となり、競合国と堂々渡り合えるようになった。そんな川淵氏のサッカー改革人生は、1本の電話から始まった。聞き手=関 慎夫 Photo=横溝 敦(雑誌『経済界』2024年3月号「夢やぶれて経営者」特集より)
川淵三郎 日本トップリーグ連携機構会長のプロフィール
自宅への電話からすべてが始まった
―― 昨年11月3日に文化勲章を授与されました。スポーツ関連では水泳の古橋廣之進、野球の長嶋茂雄に次いで3人目。サッカー界では初の快挙となりました。
川淵 前の2人はスーパースターですから。古橋さんは世界記録を連発して戦後の疲弊した日本国民を勇気づけた。長嶋さんは言わずもがなです。その点、僕は選手としてではなく、スポーツ文化の発展・向上に努力してきたということでその栄誉にあずかりました。その意味で、スポーツ界全体に対する授与だと考えています。そのことがものすごくうれしい。
―― それも川淵さんが古河電工の部長だった51歳の時に、子会社への出向命令が出たことから始まりました。もしそれがなかったら、日本のサッカー界も地域スポーツも全く違ったものになっていたかもしれません。
川淵 僕はサラリーマンとして頑張って絶対に出世するという気持ちで働いていました。日本サッカー協会(JFA)の仕事はすべて辞めて名古屋支店の金属営業部長を6年間。成績も良かったから自分としてはもっと上に行けると思ってた。ところが1988年5月2日、自宅にいる私に名古屋支店長から電話がかかってきた。電話は子会社への出向を告げるもので、僕の人生において一番のショックでした。社長にはなれなくても取締役には間違いなくなれる、そう信じていました。
同じようなタイミングで、当時のトップリーグであるJSLの総務主事の森健兒が、名古屋に転勤することになった。僕は東京へ行く。だから代わってくれないかという依頼があり、再びサッカー界に戻ることになりました。
―― そんな簡単に気持ちを切り替えることができたのですか。
川淵 初めはそんなことも考えられないほど頭にきていた。だけどサラリーマン人生の先が見えてしまった。それならばサッカーに人生を賭けてみよう。そう考えたわけです。
―― しかもプロ化の話が出始めていました。
川淵 僕がサッカーに戻る前から、若手を中心にプロ化の話が出ていました。当時の日本はワールドカップはおろかオリンピック予選を突破することもできなかった。一方、隣国韓国は1986年のメキシコ大会に出場します。その差は何か。韓国では83年にプロリーグが誕生し、メキシコ大会に32年ぶりに出場しました。日本もプロ化しなければ勝てるわけがない、と考えたわけです。
ただ僕自身はプロ化に懐疑的だった。JSLの試合を見ても閑古鳥が鳴いているような状態で、選手のレベルも低かった。何よりプロサッカーの興行に耐えられるスタジアムもほとんどなかった。だからやりたければやれば、と冷めて見ていました。でも僕が総務主事になる前にJSL内に第1次活性化委員会が立ち上がり、具体案をJFAに提出していた。これに賭けよう。それが総務主事を引き受けた一番大きな動機で、そこからはプロ化に向けて全力で取り組んでいきました。僕には失うものは何もなかったですから。
古河電工での経験が組織運営に生かされた
―― 80年代のJSLの入場者は1千~2千人程度で、プロ化などできるわけがないと考えるのが普通でした。どうやって機運を盛り上げていったのですか。
川淵 JSL総務主事になり、まずは国立競技場に人を集めようと考えました。当時、国立に観客が入るのは、ラグビー早明戦、高校サッカー、あとはミラージュボウルというアメリカンフットボールぐらい。これをいっぱいにしよう。そう考えて、読売クラブ対三菱重工、ヤマハ発動機対日産自動車のダブルヘッダーで試合を行うこととしました。国立に見に来てほしいという文面で手紙を書き、返信用のハガキも同封して関東圏の学校やクラブ、サッカースクールなどの指導者に送付したところ、観戦希望者は10万人。実際には試合の前日に雨が降り、当日の天気予報も悪かったことから随分、キャンセルが出て、当日は約3万人が来場しました。
ここで気付いたことが2つ。まずはサッカーを見たいという潜在的なファンがいるということ。これはプロ化に向けての大きな励みになりました。もう一つは、環境の悪さです。冬の試合でしたが、当時の国立のピッチは高麗芝のため、冬だったので枯れて茶色になる。それまでは選手が良い試合をすればお客さんは入ると考えていたけれど、そうではない。美しい緑の芝生のピッチがあり、そこで試合を見たいとお客さんが集まる。そうすれば自然と選手は良いプレーをする。そう考えを改めました。
―― プロ化ができると確信したのはいつ頃ですか。
川淵 92年のヤマザキナビスコカップです。Jリーグスタートの1年前にJリーグのプレ大会として開催しました。お客さんにも多く入っていただき、全試合の平均観客動員数は1万1111人。全くの偶然ですが、この1並びの数字を見た時、絶対成功する、そう確信しました。
―― それでもプロ化を巡っては、さまざまな障害がありました。特にチーム名に企業名を入れたい読売新聞社の渡邉恒雄主筆と、企業名を認めない川淵さんの論争は大きな話題になりました。
川淵 ずいぶんと抵抗されました。だけどそこだけは折れるわけにはいきませんでした。でもそのおかげで、Jリーグの掲げた地域密着の理念を、多くの人に知ってもらうことができたと思います。それまで日本のスポーツは学校体育と実業団を中心に発展してきて、地域に根ざすという考え方はありませんでした。その意味で、渡邉さんは恩人です。ただしそう思うまでには10年かかりましたけどね(笑)。
―― 渡邉主筆は、メディア界にもスポーツ界にも、そして政界にも大きな影響力を持っていました。よく突破できましたね。
川淵 「地域に根ざす」という概念は想像で掲げたものではなく、日本代表時代に西ドイツで実際に見た、目指すべき姿でしたので、僕にはそれに対する揺るがない信念がありました。「負けてたまるか」、その一念です。だから強行突破できたのかもしれません。
―― 古河電工の猛烈サラリーマンだった経験はどのように役立ちました。
川淵 組織の在り方やものの考え方・進め方はすべて古河電工で学びました。研修や仕事を通じていろんなことを学び、定量、定性、それぞれの見方ができるようになりました。Jリーグのチェアマンやサッカー協会キャプテンとしてこれは非常に役に立った。
特に定量的な分析は説得力を持ちます。ですから僕は抽象的な話ではなく、実際の数字に即して語ることが多かった。何か反対されたとしても、数字を基に理論武装して相手に納得させる。
例えば「オリジナル10(Jリーグ発足時の10クラブ)」と言われるクラブの一つ、清水エスパルスはJSLに所属していませんでした。そのため「なぜ実体のないチームを入れるのか」と批判されました。その時僕は「あと3年ある。毎年5人、いい選手を取れば15人。さらに外国人を入れれば18人の優秀な選手を揃えることができる。つまり3年あればチームは強化できる」と具体的な数字を出して説得しました。
どんな人でもスポーツを楽しむことができる社会
―― そうして迎えた93年5月15日のJリーグ開幕。感慨もひとしおだったでしょう。
川淵 ヴェルディ対マリノスの開幕戦の入場券は抽選で募集したのですが、前売り券4万枚に対し78万もの応募がありました。だけど開幕当日は意外と冷静でした。それよりも、その前日、開会式のリハーサルをやっている時に、よくここまで来たなと思い、涙が止まらなくなりました。本当にみんなの努力のおかげでした。
―― それから30年。プロ化したことによって日本サッカーのレベルは劇的に向上し、当たり前のようにW杯に出場できるようになりました。海外で活躍する選手も多く、自分もそうなりたいと夢見る子どもたちも数多くいます。でも夢を叶えることができるのは一握りで、ほとんどの人が諦めてしまいます。そんな人たちにはどんな声をかけますか。
川淵 夢というのはその時々で変わっていいんです。むしろ不変でなければならないと考えるほうがおかしい。大切なのは夢を持つこと。何を自分の生きがいにしようか考えるだけでも人生は豊かになる。僕の場合、高校でたまたまサッカーに出会い本当に熱中した。そのせいで2年、浪人したけれど、浪人中にサッカーに打ち込んでいたおかげで大学2年で日本代表に抜擢され、それが人生を大きく変えた。人生というのはそんなもの。夢がしょっちゅう変わるのも全然かまわない。いろんなことに挑戦する中で没頭できるものを見つければいいんです。
―― 今の川淵さんの夢はなんですか。
川淵 2022年の暮れから、日本のスポーツ界はとても盛り上がりました。サッカーワールドカップでは、ドイツ、スペインを撃破し、春のWBCでは見事世界一に輝いた。その後も男子バスケットボールと男子バレーボールはパリ五輪への出場を決め、夏の世界陸上ではやり投げで金メダルを取った北口榛花選手を筆頭に日本人選手が活躍しました。そして秋には阪神が38年ぶりの日本一。コロナ禍が明けたこともあり、とても明るい話題が続きました。
それでも、スポーツに関心のない人はたくさんいます。その人たちにスポーツを好きになってもらいたい。別に体を動かすことが苦手でもかまわない。ボッチャのように誰もが楽しめるスポーツもあるし、ウォーキングサッカーという、走っちゃいけない、ヘディングやタックルも禁止されているサッカーもあります。これなら初めての人でもボールを蹴るという感覚を楽しめる。こうしたスポーツを広めていくことで世の中は豊かになると思います。
今後AIの活用が急速に広がることで余暇の時間は増えていきます。その一方で、コミュニケーションが苦手な人たちが増えていく。だからこそ、スポーツを通じて人と人とが触れ合うことが大切になってきます。こういう機会をたくさんつくり、今までスポーツが苦手だった人たちに、スポーツって面白いねって思ってほしい。それが僕の夢ですね。